プリティー研究所

プリティーリズムの考察など

プリティーリズムを認知神経科学と社会心理学の本を参考にして考察する 第1章 不幸アピールの問題、フィクションにおける因果関係の操作、他者の理解の正しい意味

プリティーリズムと出会ってからの8年間の想いをここに書き記す。

第1章では不幸アピールとそれによって因果関係を操作するフィクションの問題点と他者の理解の意味を語りたい。

第2章では第1章を踏まえて見えてくるキャラクターの人間味とは何かについて語りたい。

第3章ではプリティーリズム・オーロラドリームは何が新しかったのかとプリティーオールフレンズのビッグクッションカバーの販売中止について語りたい。

第4章では坪田文菱田正和の問題点を語りたい。

不幸アピールの問題

不幸アピールする者は、生活に困窮したり、病気や障害などの身体的に危機に瀕しているような客観的に問題のある状態とは限らず、金持ちだろが、五体満足だろうが、不幸だとアピールすれば不幸なのである。即ち、詐病やかまってちゃんの可能性がある。これが問題なのは、不幸な自己主張に長けた者にかまけることで、声をあげることもできない本当に不幸な者を見過ごすことになるからだ。どこに助けを求めればいいのかもわからない者、自分の状態を言語化できるだけの知識も実行する意欲も得られる環境にいない者、自分の境遇に疑問すら持てない者、そういった人達こそが本当に不幸な者なのではないだろうか。

自分が所属する集団が、社会の中で不公平な低い地位しか得ていないなら、それに抵抗し、改善を望む。これが私たちの常識的な理解だろう。しかし、低地位にいる人々が、常に現在の低地位に抵抗し、改善を望むかというと、現実はそうではない。むしろ、不公平を受け入れ、現在の社会システムを肯定し、低地位である状態を合理化したり、社会が公正であるかのように正当化しようとすることがある。

唐沢かおり『なぜ心を読みすぎるのか: みきわめと対人関係の心理学』p202

本当に救わなければならない弱者とは、声をあげられる者ではなく、声をあげることすらできない者なのではないだろうか。「主張できない」「自分で自分を不幸だと思うことすらできない」者に比べて、「主張できる」「自分で自分を不幸だと思える」時点である程度は恵まれているのである。もちろん、どのような悩みでも軽視するべきではないが、不幸アピールする人間というのは、自分が世界で一番不幸と言わんばかりに話を盛って人の悩みを下に見る。自分は不幸なんだとアピールする人間やそれに同調する人間に限って、自分が共感できない声もあげられないような人間の痛みには鈍感なのだ。具体的に「どのような問題があって、何をすることで解決するのか」が不明瞭で、結局は「不幸なのに頑張っている自分」を顕示して優越感に浸りたいだけ。

声をあげることは悪いわけではなく、本当に困っている人もいるだろうが、声をあげる者の中には人を騙すことが目的の人間もいることに注意しなければならない。声をあげるという行為には、自分に注意を向けさせて他者を操作するという効力があるからだ。弱みがあることが「素顔」ではなく、戦略的に弱みを見せることもできる。「不幸だから仕方ない」と自分の行いの正当化に利用することが可能だし、他者の同情を得て協力もしてもらえる。あまつさえ、事実として間違っていることでも、「お前は人の気持ちがわからないのか」といった同情の同調圧力によって捻じ曲げることもできる。物事を有利に運ぶために不幸アピールしておくに越したことはない。弱みを見せることは打算なのだ。したがって、弱みがあることが自然的で本来の姿とは限らない。

ロバート・ザイアンスは参加者に赤の他人の顔が連続して示される画像を見せた。それぞれの画像は後に続く無意味な描線の画像で隠され、参加者が人の顔を見たとは気づかないようにした。そのあと、ザイアンスは刺激に使った顔を初めて使った顔と並べて提示した。「今お見せした顔は、二つのうちどちらですか?」という尋ね方をしたときは、正解率は偶然の一致を上回るものではなかった。だが、「どちらの顔がよい印象ですか?」と尋ねたときには、「サブリミナル」で見た顔を選ぶ傾向があったのだった。

(中略)

モリスたちは、人々は恐怖顔を見せられると(幸福そうな顔や普通のようすの顔を見た場合に比べて)、扁桃体の活動が活発化することを発見した。これは危険な状況を感知する機能とかかわると思われる脳の小部位である。ウェイレンたちはこの実験を再現したが、そのさいに恐怖顔をサブリミナルで提示した。あるときには一瞬だけ恐怖顔を見せ、その直後に普通顔を見せた。また他のときには、幸福顔を一瞬見せたあとで普通顔を見せた。どちらの場合も、一つ目の対象は意識に上らないのだから、予測されるのは「普通の顔が見えた」という答えだ。しかし、恐怖顔が提示されたときには、その顔に気づいていないにもかかわらず、扁桃体が活性化したのだった。

クリス・フリス『心をつくる―脳が生みだす心の世界』p56-58

このように苦しんでいるというような表情をしながら不幸アピールすると、印象に残り有利に働くということだ。議論において自分の立場が悪くなった時、不幸アピールすれば議論に何も関係がなくても批判するのを躊躇わせ、自分の立場への批判を逸らすことができる。議論で事実を明らかにすることが目的ではなく、自分が勝利することしか考えていないので、不幸アピールのような姑息な手段に走るわけだ。このような不幸アピールに流されてしまうと、事実を見落とすことになる。

因子分析を行った結果、現れたのは二つの次元であった。一つ目は、自己統制力や、道徳性、記憶、感情の認知、計画、コミュニケーション、思考能力から構成される「行為性(agency)」の次元、そして二つ目は、飢え、恐怖、痛み、喜び、怒り、欲求、プライド、喜びなどを感じる能力から構成される「経験性(experience)」の次元である。行為性は何かを「行う心」、経験性はさまざまなことを「感じる心」というようにも表現できるだろう。私たちは心について、行動を遂行することに関わる機能と、主観的経験を得ることに関する機能から構成されていると理解しているのである。

唐沢かおり『なぜ心を読みすぎるのか: みきわめと対人関係の心理学』p220

大人として、社会の中で一定の地位を得ている人は、通常、自己統制力や判断能力を備え、行為性が高いと判断される存在であり、他者に対する加害行為のような非道徳的な行動を行ったときには責任が問われる。

(中略)

経験性次元の効果については、それが高いとみなされる存在に対して、被害から「守られるべき」だとの認識をより強く持つことが挙げられる。

唐沢かおり『なぜ心を読みすぎるのか: みきわめと対人関係の心理学』p226

個人の属性として行為性が高い心を持つと認知された人は、主体としての役割を持つと認知されやすくなる。それと同時に、客体としての役割は付与されにくくなり、経験性が低いという認知につながる。その逆に、経験性が高い心と認知された人は、客体としての役割を付与されるので、主体としては認知されにくくなり、行為性が低いと認知されやすくなる。

さらに、二者関係においては、行為性が高い人(すなわち主体としての役割が付与されやすい人)とペアになっていると、客体とみなされやすくなり、結果として経験性が高いと認知されることになる。それに対して、経験性が高い人(すなわち客体としての役割が付与されやすい人)とペアになると、主体とみなされやすくなり、行為性が高いと認知されがちとなる。

唐沢かおり『なぜ心を読みすぎるのか: みきわめと対人関係の心理学』p231

不幸アピールする者は、痛みを経験している憐れむべき弱者として認知され、責任が問われ難くなる。そして弱者の立場を獲得することで、ペアになった相手は相補的に主体(=責任がある者)としての役割が付与され、感じる心は低いとみなされる。議論において分が悪くても「私は弱者なんですぅ、議論相手は人の痛みを理解できない冷血人間なんですぅ」と相手を陥れることが可能なわけだ。客体とみなされた者は、苦痛を与えないように配慮される一方で、主体とみなされた者は、多少の苦痛を与えられても仕方ないと思われる実験結果も出ている。このように、不幸アピールする者は助けるべき客体で、不幸アピールしない者は主体がある=苦痛があっても本人の責任だから仕方ないとして扱うことは、助けが必要な本当の弱者に対して無理を強いることになる。

例えば、生まれつき(生まれて間もなくや物心がつく前を含め)目が見えない人間と、目が見える状態を知りながら目が見えなくなった人間、どちらが不幸なのかといえば、量的には目が見えない時間が長い生まれつき目が見えない方である。しかし、より絶望が大きいのは、目が見えることを知りながら目が見えなくなった方ではなかろうか。選べていたことが選べなくなることで絶望を抱く。目が見える人間は目を瞑れば目が見えない状態を体験することが可能なため、目が見える状態と目が見えない状態から選ぶことができる。しかし生まれつき目が見えない人間は、目が見えることの幸せを知ることができず、最初から目が見えない状態しか選ぶことができない。後から目が見えなくなって絶望した人間も、時間が経つにしたがって不幸に順応する。量的に多い方がむしろ不幸は自覚できなくなってくるのだ。目が見える人間は誰もが失明したくないと思っているはずだ。それなのに、目が見えないことに疑問を持たない人間は幸せだと言えるのか。

目が見えなくても結果的にその人生の中で幸せを得られたと思えるのはいいことだと思うし、そこに偽りや妥協が含まれていたとしても、自分自身を肯定できることを他者から否定される筋合いはない。しかしだ、当事者でもない人間が肯定するのも問題がある。問題のある状態に疑問を持つことの抑圧になるからだ。目が見えないという問題のある状態なのは変わらないわけで、解決できるのに解決することを求めなくなったり、発生を未然に防ぐことをしなくなったり、今は解決できなくても、いつか今より進歩すれば解決できるかもしれないのに、現状を肯定することで進歩することをやめてしまうことになりうる。これは目が見えない人間などを憐れむべきだと言っているわけではない。雰囲気に左右されずに何が問題なのかを冷静に見極めるべきだと言っている。なぜ共感を基準に考える人間は、憐れむか放任するかの二択しかないのか。

つまり、自己報告があるからと言って不幸とは限らないし、自己報告がないからと言って幸福とは限らない。幸福or不幸を判断するのに、声をあげているorあげていないはまったく客観的な指標にならないし、本人の不幸アピールで物語を作るような作品は、アピールすることで注意が向きやすい心理を利用し、虚構因果関係を作っているだけにもかかわらず、不幸アピールする=不幸、不幸アピールしない=幸せという錯覚を強化させるので危険だということだ。これがプリティーシリーズの問題点である。

 

フィクションにおける因果関係の操作

例えば、プリティーリズム・オーロラドリームの天宮りずむやプリティーリズム・レインボーライブ蓮城寺べるがそうなのだが、二人とも恵まれた身体能力を持ち、家は金持ちであるにもかかわらず、「寂しい」「愛がない」と大袈裟な振る舞いで自分は不幸だとアピールをする。その原因は母親にあるということなのだが、感情自体も詐病の可能性があって事実という確証はないが、とりあえず「何らかの感情」があること自体は事実と仮定しよう。しかし、その感情の原因が母親であるという因果関係の根拠は、本人の自己報告しかない。母親のせいで感情が引き起こされたというのは論理的に証明されておらず(母親以外には原因がないという確証はない。本人が気がつけないだけで疲労や病気、障害を抱えているなどの別の原因で通常の状態ではありえないような不適切な感情が引き起こされている可能性だってある。あるいは、「母親がいないと寂しい」「母親のあのような態度は娘を苦しめる」といった因果関係は証明できないが俗説があって、その俗説を内面化しているために自己暗示的に感情が引き起こされているなどの可能性もある)、「何らかの感情」があることの原因を思い込みで勝手に母親に帰属させているだけなのである。母親以外に原因がある可能性は検証せず、母親に原因があることに都合のいい情報しか見せない。キャラクターの言い分を一方的に信じられるような妄信的な人間になることを指示されている。

「AさんがBさんを傷つけた」場面を見れば、加害者であるAさんに対しては、以降は警戒すべき人だとしてなるべく近づかないなど、注意深く対応するだろう。

モラル・タイプキャスティング仮説の興味深い点は、「Bさんが傷ついた」という被害を知っただけで、「加害者と被害者がセットになる」という知識が適用され、加害者たるべき存在を同定しようとすることだ。その際、もしかすると、たまたま居合わせた人が加害者として認知されてしまうかもしれないし、そこまでは及ばなくても、その可能性があるという目で見られ、警戒すべき対象とみなされるかもしれないのである。

唐沢かおり『なぜ心を読みすぎるのか: みきわめと対人関係の心理学』p247-248 

例えば、これは有名な実験である。

この実験は、最初に「白い服を着た人間がボールをパスした回数を数えろ」という指示がある。この指示に従うと、半数の人間が途中で横切るゴリラを見落とすという結果が出ている。これは物語の「最初に示された目的」や「ドラマの規範モデル」や「不幸アピール」にも言えることで、「目的の達成」や「ドラマのテンプレに従っているか」や「不幸への同情」を指示され、そこに注意を向けて作品を見ると、事実を見落とすことになるということだ。

登場人物の大袈裟な感情と言い分のみを根拠にして、それが間違いである可能性を検証しないで決めつけるというのは、「ドラマとは、フィクションとはそういうものだ」と言えばそうなのだが、嘆かわしいことに、虚構にもかかわらず、「現実」だとか「子供にとって価値がある」だとか「成長に繋がる」だとか「教育的」だとか言うアホなクリエイターや視聴者が一部存在する。原因と結果を作者が操作できる時点で、物語は現実や客観的にはならない。しかし、たいていは現実において因果関係があることをベースに物語を作るわけだが、現実においての因果関係が不確かにもかかわらず、苦しいのは親のせいだとアピールして、特定の人物に悪い印象を与えるように因果関係を操作するような作品は、偏見の強化でしかない。これを無批判に「その気持ちわかる」などと言って「共感的理解」ができる人間も、事実を理解しようとしておらず、「娘が苦しむのは親のせいだ」という偏見的な規範に従っているために、「共感的理解」が可能なことを自覚した方がいい。この因果関係を証明しないで雰囲気や暗黙裡から何となく理解した気分になるだけの「共感的理解」を、因果関係が確かな「客観的理解」と混同すると、風評被害や偽医学が蔓延し、誤った理解によって下手をすれば命を落とすことになりかねない。「人は他者を理解できない」などと言うような人間は、自分自身が理解=同調・許容という「共感的理解」しかできないから雰囲気に飲まれず「客観的理解」を探求する人間を、理解できないのに自分の理解を押し付けているなどと決めつけているだけなのだ。「人は他者を理解できないことを理解しろ」と人を抑圧して対立から逃げるような人間は、自分を同調・許容してくれる道具としてしか他者を見ていない。

非意識的な過程については、その実証研究の再現性に疑問を呈する声もあるので、軽々しく一般化することはできない。しかし、少なくとも、非意識的な処理が存在すること、またある条件が整えば、それが意識的な判断や行動に影響すること自体は否定できない。つまり、私たちは自分の判断や感情、行動の理由を、常にきちんと意識的に把握できる存在ではないということになる。自らの判断、感情、行動に対して、もっともらしい説明をつけることができるし、実際つけているわけだが、それが正しくない場合があることを、非意識的な過程に関する知見は示唆している。

唐沢かおり『なぜ心を読みすぎるのか: みきわめと対人関係の心理学』p142

直感的には、「他者が自己報告する」思考や感情を当てることができれば、「正しい」と言えるように思えるかもしれない。しかし、経験している本人が、正しく自分の心を内省しているとは限らないわけだから、推論を行う人の報告と他者の自己報告の合致が、正しさ判断の基準として絶対的な位置づけを獲得できるというわけではない。

唐沢かおり『なぜ心を読みすぎるのか: みきわめと対人関係の心理学』p159

オーロラドリームはこのような偏見で因果関係を捏造したままで放っておかないため、誠実な作品だったと言える。例えばオーロラドリームの第46話では、あいらはりずむの「あんたさえいなければティアラは私のものだったのに」といった非事実(第11話のティアラカップにおいてあいらがいなければりずむはそもそも予選で失格)や、「苦労も知らないあんたに飛べるわけがない」といった自分だけが苦労しているつもりの特権意識の妄言に「共感的理解」をして肯定するのではなく、情緒不安定で支離滅裂なことを言っているという事実を理解して、そんな錯乱状態のりずむを放っておくのは危険だから、恩を仇で返すような罵声を浴びせられても諦めずにりずむを救うために突き進むわけだ。同調することと「客観的理解」することはまったく別であり、同調するのに「客観的理解」は必要ないし、「客観的理解」に同調は必要ない。

 

他者の理解の正しい意味

自分自身の自己認知が「客観的理解」とは限らないし、他者の知識が自分自身の自己認知と食い違っても、それが「客観的理解」ではないとは限らない。当たり前の話だが、自覚症状がなくても病気ではないとは限らず、病院に行って検査を受けることで初めて自分の状態を正確に理解できるはずだ。重病であるのに自覚症状はないからと言って「客観的理解」を求めず、周りも「共感的理解」という同調・許容しかしなければ、死に至る。医学が間違っている可能性もあるが、自分一人の思いつきよりも、世界で連綿と研鑽されてきた根拠のある医学の方が間違いは少ないだろう。自分自身の自己認知を妄信し、他者の知識を根拠もなく間違いだと決めつけることが偏見なのである。誰もが根拠のない暗黙のルールに多かれ少なかれ従っているし、偏見も持っているだろう。別にそれはすべてが直ちに棄却されるべきものとは言えないし、どこからが事実でどこからが偏見なのか証明しようがなかったり、証明コストや修正コストがかかったりするので、実証されたもの以外を禁止するのも抑圧になる。しかし、自分自身の自己認知を妄信することにも危険性があることは自覚するべきだ。

私たちがどうやって他者の心を理解するのか、この問いには科学による説明を試みることが可能である。それは私たちがどのように物理世界を理解しているのかを説明するのとまったく同じことだ。心理学とはこうした理解を研究する分野なのである。そして前章で見たように、物理世界に対する私たちの知識は本質的に主観的なものだ。私が物理世界について知っていることは、脳が創り出した世界のモデル内に取り込まれている。このモデルは予備知識と感覚からの手がかりによって創り出される。それにより私の脳は木や鳥や人々から成る物理世界を創り出す。心的世界、すなわち他者の心の世界に関する知識も、これとまったく同じやり方で創造される。五感がとらえる手がかりをもとに、脳は信念、欲求、意図といった心的世界のモデルを創り出す。

クリス・フリス『心をつくる―脳が生みだす心の世界』p178

ちなみに、ここでは意識経験の一致が「理解」という意味で言っているのではない。喜びや悲しみなどの表情や行動や言葉といった物理的手がかりから対応した何かしらの経験を想起しても、何を想起するかは個々人によって異なるし、似たようなことを想起しても、所詮は似たようなことでしかないので、完全に同じわけではない。同じ事態に直面した人間が二人いたとしても、遺伝子やその事態に直面する以前の記憶などに依存して変わってくる。特定の反応を示すことが特定の状態だと科学的に定義付けられたとしても、対応する感じ方が一致しているかはわからない。ただ、これを理解とは言わない。そもそも証明する方法がないから。間違いとは言えないが正しいとも言えないので、正当化の根拠にはならない。行動の是非ともまったく関係ないわけ。意識経験の一致が理解なら、「理解できている」とか「理解できていない」といった判定すら下せない。意識経験が一致していないことすら誰にも証明できないから。判定を下せる人間がいるとすれば、自分は神にでもなったつもりの傲慢な人間だけだろう。行動という物理的手がかりが一致していないことは意識経験が一致していないことの根拠にはならない。つまり、同じ意見・同じ行動を取った人間同士であっても、意識経験が同じとは限らないなら、違う意見・違う行動を取った人間同士も、意識経験が違うとは限らない。

「理解できていない」ことを同調していない行動という物理的手がかりから推論しておきながら、他者が別の他者の行動という物理的手がかりから推論する行動においては「他者は別の他者を理解できていない」などと理解の意味を意識経験の一致にすり替えるような人間は、他者を見下したいだけなのだ。そして同調しない行動から理解できていないと推論するのは「共感的理解」の基準であり、それは理解しているっぽい雰囲気を作り出す馴れ合いにすぎず、意識経験の一致でもなければ、行動の是非を考えることすらも放棄することだ。同調しないことは「共感的理解」をしていないことであっても、「客観的理解」をしていないこととは限らない。「共感的理解」の基準では同調することが理解であり、同調しないことが理解しないという意味になるため、馴れ合いor排除の両極端になる。「意識経験が一致することは不可能だから」と言って、「客観的理解」をも放棄して、「共感的理解」という名の根拠のない暗黙のルールに了解できる人間以外を排除した馴れ合いを許容するのは、風評被害や偽医学が蔓延したり、犯罪に繋がることになりかねない。

私の心の中に何らかの考えがあって、それをあなたに伝えたいとする。私はそれを言葉という形に変換して伝える。あなたは私の言葉は耳で聞き、心の中でひとつの考えとして変換しなおす。しかし、あなたの心の中にある考えが私の心の中にあるものと同じであると知る方法はあるだろうか?あなたが私の心の中に入ってお互いの考えを直接比較することはできない。ならばコミュニケーションなど不可能だ。

しかしいまこの瞬間ですら、私たちは意味という問題について活発なやりとりをしているではないか。私たちの脳はコミュニケーションという不可能問題を解決しているのだ。

クリス・フリス『心をつくる―脳が生みだす心の世界』p208

恐怖による条件づけの実験パラダイムでは、視覚刺激(赤い四角で、これが条件刺激となる)が電気ショックの直前に画面に表示される。赤い四角と電気ショックという組み合わせを何度か経験すれば、ネズミでも人間でも被験者は赤い四角に対して恐怖の反応を示すようになる。この恐怖の反応の一面は、扁桃体の活動の増大という形で観察される。こうした電気ショックによる恐怖は、任意の視覚刺激と結び付けられたことになる。

ところが、恐怖を赤い四角と結びつける方法は他にもある。これは人間の参加者のみに通用する。初めて実験を受ける何も知らない参加者に、赤い四角のあとには電気ショックがくると事前に教えておくのだ。これを聞くまでは、彼らは赤い四角を見ても何の恐怖反応も示さない。だがそれを言われた後には、赤い四角を見ると扁桃体が活性化し恐怖反応を示すようになる。赤い四角の後に痛いショックがくるという経験をしたのが私であっても、そのことが他の人の脳に恐怖を創り出す。

クリス・フリス『心をつくる―脳が生みだす心の世界』p225-226

「人は他者を理解できない」と主張するような人間は、「理解できない」と言った時点で、「理解できる」の条件を設定して、その条件を満たしていないことを理由に「理解できない」と言っているわけだ。例えば、「Aさんはりんごが好き」と知っていること(Aさんへのお土産にりんごを買ってきた)が「Aさんを理解している状態」の条件だから、「Aさんはりんごが好き」と知らないこと(Aさんへのお土産にりんごを買ってこなかった)が「Aさんを理解していない状態」の条件になるわけだ。だから「Aさんはりんごが好き」と知っているという条件(Aさんへのお土産にりんごを買ってくる)を満たせば「理解できる」ということだ(ちなみに、この理解の仕方では「好きだと知っていて(たまたま売っていなかったから、あるいは健康状態を考えた結果あえてなどの理由で)買ってこなかった場合」や「好きだと知らずに(たまたま安かったから、あるいはお土産にはりんごを買うことが定番だったからなどの理由で)買ってきた場合」や「お土産には相手の好きなものを買ってくるべきという規範の共有」を無視しているので、「お土産にりんごを買ってきたor買ってこなかった」という行動からの推論だけでは、真に知識の有無を理解していることにはならない)。条件を設定しなければ、「Aさんはりんごが好き」と知らないこと(Aさんへのお土産にりんごを買ってこなかった)を「Aさんを理解していない状態」だということも理解できない。つまり、「理解できない」の条件があるなら、「理解できる」の条件もあることになる。「理解できる」の条件があるなら、その条件を満たせば理解は可能だということだ。

仮に「人は他者を理解するための条件を絶対に満たせない」ということだとしても、「人は他者を理解するための条件を絶対に満たせない」ことを自分は理解しているわけだ。「人は他者を理解するための条件を絶対に満たせない」ことを自分は理解できるなら、「人は他者を理解するための条件を絶対に満たせない」ことを理解するための条件を満たせているわけで、「人は他者を理解するための条件を絶対に満たせない」は自家撞着している。これを理解していない間抜けが、「人は他者を理解できない」だとか主張している。あるいは自分自身は「人」ではなく、神のつもりなのだろうか。神である自分は条件を満たせるが、普通の人は条件を満たせないと他者を見下したいだけなのを隠蔽しているだけなので、「自分の他者理解」には適用されないわけだ。このような「人は他者を理解できないのに理解を押し付けるな」という理解を押し付ける人間の自家撞着している振る舞いが、後々説明するが、プリティーオールフレンズのビッグクッションカバーを批判した連中の振る舞いと酷似している。

私たちは、生き物以外にも心を知覚するが、ハイダージンメルが行った実験は、単純な図形でも動くことによって、心の知覚が促進されることを示している。参加者は、図にあるように、二つの三角形と一つの丸が、四角い箱に出入りしたり、箱の外で動き回る動画を見せられるのだが、何を見たのかを答える際、図形の動きを擬人的に表現して報告する。例えば、「小さい三角形と丸が仲良くしていると、大きい三角形が小さい三角形をいじめたが、小さい三角形と丸が逃げて、最後には大きい三角形が取り残され怒っている」などだ。行動の意図や心の状態を表す言葉を用いて、図形の動きにあるストーリーを与えていることがわかる。

(中略)

なお、同じ動画を赤ちゃんに見せて視線をチェックすると、「意地悪な図形(大きい三角形)」を避けようとすることも明らかになっている。これは、大きい三角形が、単なる図形ではなく、望ましくない存在とみなされていることや、さらには加害的な意図やパーソナリティを持った存在として理解されている可能性を示唆する。このような赤ちゃんの反応も、「心を読む」ことが私たちの基本的な属性であり、外界を理解し意味づけ、適応するための基盤となっていることを教えてくれるのである。

唐沢かおり『なぜ心を読みすぎるのか: みきわめと対人関係の心理学』p130

生きるためには世界の正確な理解が必要で、効率的な世界の正確な理解には他者の知識が必要だ。他者が発見した、自分がまだ知らなかった情報、自分では発見できなかった情報によって世界を正確に理解できる可能性が増す。そして自然に新しい情報に向わせるために「面白い」という情動があるのではないか。理解してしまうと古い情報となり、面白さはなくなる。理解できない関係に満足するべきだとか、理解できない関係に価値があると言って、理解しようとすれば理解できるにもかかわらず、不自然に距離を取って理解しないままで留めておくというのは、単に新しい情報に面白さを感じる人間の機能を利用して、理解を倹約することで新しい情報を維持して遊んでいるにすぎない。生きる確率を上げるために面白いという情動が存在するはずが、面白さのために生きる確率を上げる情報収集=他者の理解を倹約するのは本末転倒と言える。

ひょっとすると人は進化の過程で、多少の危険を冒してでも新しい情報を手に入れたいと思えるように、好奇心に伴う行動を喜びと結びつけたのかもしれない。コペルニクスは学ぶことに「信じがたいほどの精神的喜び」を感じると記しているが、読者の多くも彼の言わんとすることがわかるだろう。神経科学者たちはこのような喜びが脳内のある化学的な伝達物質に由来することを突きとめている。カリフォルニア工科大学の研究グループは、学生たちに雑学的知識について四〇問のクイズに答えてもらい、その間彼らの脳をスキャンした。被験者はまずは質問を読んで頭のなかで答えを考える。それから正しい答えにどれくらい興味があるか回答し、それが終わると再び質問が提示され、続いて答えも示される。この実験で明らかになったのは、被験者の好奇心をかき立てる質問は、脳のなかでも学習と恋愛に深く関わる尾状核という部位を活性化させることがわかった。尾状核にはドーパミンを放出する神経細胞がつまっている。ドーパミンは私たちがセックスや食事を楽しんでいるときに脳内で盛んに分泌される物質だ。どうやら、脳は進化の過程で、知識を求める衝動を人のもっとも根本的な喜びと同じ経路に組み込んだようだ。

イアン・レズリー『子どもは40000回質問する あなたの人生を創る「好奇心」の驚くべき力』p41-42

そもそも対立のない場所に多様性などあるわけがない。同調・許容しかなければ壁打ちと変わらず、他者が他者である意味がなくなる。「人は他者を理解できない」で議論もせずに対立を収めようとしている人間は、根拠がある主張と根拠がない主張を等価にしているから間抜けなのだ。それは自分の根拠がない思いつきを守りたいだけの自己愛でしかない。議論もせずに同調・許容を強制するのは、ただの間違いの放置であり、多様性がある状態ではなく、多様性という名の支配だ。互いに矛盾のない根拠があり、「客観的理解」したところで絶対に両立しえない相反する価値の立場があるからこそ、多様性があると言える。そしてそのような多様性がある場所なら、対立は絶対になくならない。プリティーリズム・オーロラドリームではオーロラライジングドリームとオーロラライジングファイナルがそれに該当し、第46話はそもそもりずむに理がないので相反する価値の対立ではないのだ。