プリティー研究所

プリティーリズムの考察など

プリティーリズムを認知神経科学と社会心理学の本を参考にして考察する 第2章 キャラクターの人間味とは何か

第2章の今回は、第3章でプリティーリズム・オーロラドリームの新規性を語ろうと思うのだが、その前準備としてキャラクターの人間味とは何かについて考えたい。

キャラクターの人間味とは何か

よく欠点がないキャラクターには人間味がないと言われる。しかし、欠点とは何だ。身長が高いことが好きな場合は身長が低いことは欠点になるが、身長が低いことが好きな場合は身長が高いことが欠点になるだろう。何を欠点だと思うのかは人それぞれなわけだ。となると、作者が欠点として意図して描いた部分を、欠点だと同調できる読者だけがそのキャラクターに人間味があると思えるのか。そうとも思えない。

ここで言う「欠点だと同調できる」とは、自分が前もって持っている知識で欠点だとわかるということだ。身長が低いことを欠点だと思っていれば、身長が低いキャラクターは欠点があるキャラクターだと思える。しかし、前もって身長が低いことが欠点だとわからなくても、作品から学習して欠点だとわかる、価値観が180度変わるとまではいかなくても、身長が低いことが欠点になりうると理解することは可能なはずだ。それはどんな時かと考えると、キャラクターが悩んでいる時ではないか。身長が低いことを気に病む、あるいは身長が低いことによって目的を達成できない展開を作る。そうすれば、前もって持っている知識では身長が低いことを欠点だと思えなくても、作品体験によって学習して、身長が低いことは欠点かもしれない、欠点になることもありうると思えるようになる。自分自身においては、機能不全があることで悩むわけだが、他者からの情報においては、悩むという振る舞いから機能不全の可能性を推論するということだ(ただし、第1章でも説明したが、不幸アピールのような本人の勘違いや詐病の可能性も多分にあるので、悩む振る舞いは機能不全の可能性にはなっても、本当に機能不全があるのかは定かではない)。つまり、欠点がないキャラクターに人間味がないのではなく、キャラクターの欠点を欠点たらしめるのは悩むという振る舞いであり、悩まないキャラクターには欠点があるとは思えず、人間味も薄くなってしまうのではないか。

脳は世界に対して抱いている信念にもとづいて、目や耳や他の感覚が検知するであろう活動パターンを予測できる。これはp(X|A)にあたる。ではこの予測にエラーが起こるとどうなるのだろうか?こうしたエラーは脳が世界に対する信念を更新し、より良いものとするのに役立つので非常に重要だ。これがp(A|X)にあたる。一度こうして更新されれば、脳は世界について新しい信念を得て、また同じプロセスを繰り返すことができるようになる。つまりこの新しい信念によって、私の感覚器が感知する活動パターンをさらに予測するのである。脳がこの閉じた輪のようなプロセスを繰り返すたびに予測のエラーは少なくなっていく。そしてエラーが十分に少なくなったとき、人の脳は世界に何があるのかを「知る」のだ。これはあっという間に起きるので、その複雑なプロセスはまったく意識されない。現実世界にあるものを理解することは簡単なことのように感じられるが、脳はひとときも休まずにこの果てしない予測と更新のループを続けているのだ。

クリス・フリス『心をつくる―脳が生みだす心の世界』p159 

私が知覚しているのは、目や耳や指に入ってくる粗雑で曖昧な手がかりではない。私が知覚しているのはもっと豊かな世界だ――それはこうした粗雑な信号が過去の経験という財産と結合してできた一幅の絵のようなものである。知覚とは外の世界に何があるのかを予測することである。そしてこの予測は常に行動によって検証される。

どんなシステムでもそれぞれ特徴的なエラーを起こす。幸運なことにこれらのエラーは非常に多くの情報を含んでいる。エラーはシステムが学習するために重要なだけでなく、システムがどのように作動するかを知ろうと観察するときにも重要である。エラーはそれがどのような種類のシステムかを知るための手がかりとなる。

クリス・フリス『心をつくる―脳が生みだす心の世界』p167

このエラーがキャラクターの悩むという振る舞いに該当するのではないか。自分自身の信念においては機能不全はないのに、キャラクターは機能不全というのはエラーなわけだ。しかし、ちょっと待ってほしい。悩んでいるのに人間味があると言われているのを見たことがないキャラクターがいる。それは子供のキャラクターである。子供が泣き叫んだり、思い通りにいかないことがあっても、そこに人間味があるとは思えないのはなぜか。ここでひとつの仮説を立てたい。例えば、法的には善意というのはある特定の事実を知らずに行った、すなわち過失であり責任が軽いことを意味し、悪意というのはある特定の事実を知っていながら行った、すなわち故意であり責任が重いことを意味する。これがキャラクターの「人間味」にも当てはまるのではないか。

大人のキャラクターに比べ、子供のキャラクターの方が無知っぽいという印象がある。だから子供のキャラクターの行動は本人の意思ではないし、人間味があるとはあまり言われない。「っぽい」なのは印象であって事実とは限らないため。あるいは問題がないっぽい日常系アニメのキャラクターも人間味があるとはあまり言われない。問題がないっぽいから責任を問う事態にならないからだ。責任が軽い無知っぽいキャラクターや、責任を問う必要がない問題がないっぽい物語のキャラクターは人間味があるとは言われ難いのではないか。

大人と子供が同じ行動を取ったとする。そうすると、大人は知識があるっぽいという印象があるから、何か意図があってそのような行動を取ったと思うのに対して、子供は無知っぽいという印象があるから、そのような行動を取ったのは知識がないゆえとして軽視される。大人(知識がありそうなキャラクター)の行動には、知識があるゆえに何らかの因果関係を踏まえた上での選択であり、価値ある情報がありそうと思われるのに対して、子供(知識がなさそうなキャラクター)の行動には、知識がないゆえに選択しているわけではなく、特に価値ある情報ではなさそうと思われる。実際の知識の有無は個々人によって異なるが、大人の行動の方が何らかの価値ある情報であると思う一般的な信念に差がある。つまり、子供の行動は自らの意思(=責任)で選択した行動ではないと認知されやすいということだ。

参加者にさまざまな性格特性を提示し、「人間の本性の一側面を表す」程度や、「他の動物には当てはまらない、人間に独自のものである」程度について評定を求め、それぞれで高い評定値を得る特性を探索したり、情緒性、普遍性、不変性、内在性など「人間の本質」という考え方に対応する特徴について評定を求めたりすることを行った。

このような一連の実証的な検討の結果、明らかになったのは次のようなことだ。人間の本性に当てはまるとされた特性は、「感情的」「情熱的」「好奇心の強い」「自律的」「想像的」などである。これらは、情緒的、普遍的、内在的とみなされ、また、すべてではないが、発達の初期に現れると考えられているものが相対的に多かった。一方、人間の独自性は、「理念的」「理性的」「話好き」「分析的」「芸術的」など、認知的能力に関わる特性や、他者との相互作用に必要なコミュニケーションに関わる特性が挙げられた。また、これらの特性は、人間の本性に当てはまる特性とは対称的に、非情緒的、非普遍的であり、変化するもので、発達の後期に現れると考えられていた。

唐沢かおり『なぜ心を読みすぎるのか: みきわめと対人関係の心理学』p181

幼い子どもは、道徳を逸脱するような行為を行っても、大人ほど責任を問われないし、他者からの不道徳的なふるまいからは守られなければならないと考えられている。一方、医者や弁護士、会社の役職者などの社会的地位が高い人たちは、一般よりも道徳的で高潔なふるまいをすることが期待されている。また、犯罪行為により他者を傷つければ、通常はそれに対して責任を問われ、償いを求められるが、精神疾患などによる心神喪失状態ゆえに犯罪行為を意図して行うことができないと認められれば、責任を問われない。このように、それぞれが持つ属性に応じて、道徳的に期待されることや要求されること、すなわち道徳的立場が異なってくる。

唐沢かおり『なぜ心を読みすぎるのか: みきわめと対人関係の心理学』p205-206

人間の本性や独自性の認知と道徳的立場の付与との関係については、評定間の相関関係により検討が行われた。その結果、人間の本性が高いという認知が道徳的な行動に対する賞賛につながるのに対して、独自性が高いとみなされると非道徳的な行動に対する非難が高くなること、また、人間の本性が高いと認知されると不当な扱いから守られやすくなるのに対して、独自性が高いと認知されるとむしろ守られにくくなることが示された。

唐沢かおり『なぜ心を読みすぎるのか: みきわめと対人関係の心理学』p207-208

第1章の不幸アピールの項目でも説明したが、子供といった弱者は保護されるべき「客体」とみなされやすく、社会的地位の高い者は責任ある「主体」とみなされやすいという実験結果がある。そして「客体」とペアになった者は「主体」、「主体」とペアになった者は「客体」という相補性があるのだが、社会的地位が高いキャラクターや、子供と一緒にいる親のキャラクターが無条件に人間味があるかと言えばそうでもない。これはなぜかと考えると、選択していると思えないからだ。「社会的地位が高いという役割」や「親という役割」は、最初から与えられていて、キャラクターに選択肢があったわけではない。社会的地位が高いという役割を最初から与えられたキャラクターは、社会的地位が低い状態を知らない。親という役割を最初から与えられたキャラクターは、親ではない状態を知らない。悩むことで相反する価値を知っていると認知され、別の選択肢を持っているということを知ることができる。それによって選ぶだけの価値があった状況、あるいは選ぶだけの価値がなかった状況という情報を得られる。大人(=主体)のキャラクターであっても、悩まないキャラクターでは情報が得られない、すなわち人間味がないのだ。

行為者の「主体」であると同時に経験者の「客体」でもある、それが人間味なのではないか。主体(=大人)が経験している(=悩んでいる)ことがエラーになるのであって、客体(=子供)が経験している(=悩んでいる)ことはエラーにならない。子供が悩む(=欠点がある)ことは当たり前のことだからだ。大人が悩む(=欠点がある)ことは、悩むような状況ではない=エラーはないと思っていた信念を更新できる、相反する価値のある情報の可能性がある。主体だけあっても、それは機械のように予想通りの成功をしただけであって情報がない。客体だけあっても、それは子供のように予想通りの失敗をしただけであって情報がない。

客観的な成功か失敗かとは限らず、「成功するはずなのに失敗した・主体なのに経験している」「失敗するはずなのに成功した・客体なのに行為している」という先入観のエラーによって人間味は生じるのではないか。「冷静でクールな(主体)キャラクターだと思ったら、実は状況に戸惑っていっぱいいっぱい(経験性)だった」とか「状況に同調して愛想がいい(客体)キャラクターだと思ったら、実は打算的(行為性)だった」といったキャラクターがウケやすいのもこのためではないか。

もし仮にネッカーの立方体を見たことがなく、一つの形から別の形へ反転する性質を知らない素朴な人がいたらどうなるだろうか?彼には図が反転して見えない程度の短い間この図を見てもらう。それからその図を想像してもらう。想像の中で図を詳しく見たときに反転は起きるだろうか?私はネッカーの立方体は想像の中では反転しないことを発見した。この種の想像には独創性のかけらもない。そこには予測もエラーもないのだ。頭の中だけでは創造できない。人はスケッチやいたずら書きやラフな下絵といった形で自分の考えを外在化することで創造性を発揮する。そうすることで現実がもつ意外性の恩恵を生かすことができる。現実世界と関わることが楽しいのは、この絶え間ない意外性があればこそなのだ。

クリス・フリス『心をつくる―脳が生みだす心の世界』p173-174

子供(=客体)が悩んでいる場合は、無知ゆえの過失(=善意)であり、状況に同調している(=衝動に従っている)だけで、状況の方が悪いとして処理される。大人(=主体)が悩んでいる場合は、本人の故意(=悪意)の選択による責任であり、本人が悪いとして処理される。そのため、子供の場合は、「悩まない正常な状況」と「悩む異常な状況」という信念が更新されることはないが、大人の場合は、「悩まない正常な状況」と「悩む異常な状況」という信念が間違いで、正常な状況なのに悩んでいる大人が実は「正常」で、本人に責任があると思っている自分の信念が実は「異常」なのかもしれず、信念を更新させる可能性がある。つまり、子供の悩みは本人は善、状況が異常なのに対して、大人の悩みは本人が悪、状況が正常なのだが、「正常」にもかかわらず悩んでいる=エラーがあることによって、「正常」の信念に疑いを持てるということだ。

社会的に望ましい行動や規範、役割に一致した行動は、必ずしも行為者の内的特性を反映しているとは推論されず、「その場で望まれているから」とか「役割に従っただけ」と考えられ、対応推論の程度を弱める。対人認知という観点からすれば、情報価が低いということだ。もちろん、そこでの行動を「望まれる行動をした」とか「役割どおりのことをした」と理解し、そこから「従順さ」などを推測することはあるかもしれない。ただし、その場合でも、多くの人がそうしているなら、それは人が普通に持つレベルの従順さだということにとどまる。他者を理解することは、その人にユニークな内面を把握することでもあるが、このような要請には、うまく応えることができない。

また、社会的に望ましくない行動や役割に一致しない行動は、「わざわざそうした」原因を求めることになり、その分、行為者の内的な特性に帰属される度合いが高まることになる。その場合、どのような対応推論が行われるかは、そこでの言動がどのような行動であると理解されるかに影響される。例えば、役職者が列席しているような会議で、わざわざ乱暴な言葉遣いで反対意見を述べたとする。このような、その場面の規範に反した言動は、その人の粗野な性格や、自分の置かれている立場を理解しない無能さに帰属することもできる一方、その行動を「権威への抵抗」というように理解すれば、「非権威主義的な態度」とか「はむかう勇気」が推測されることになる。同じ言動でも、どのような行動とみなされるか(同定されるか)が異なれば、それに対応して推論される特性も異なるのである。

唐沢かおり『なぜ心を読みすぎるのか: みきわめと対人関係の心理学』p78-79

例えば、全員がルールを守る中で、一人だけルールを守らない者がいるとする。そうするとそのルールを守らない者がエラーとなり、ルールを守らない者に注意が向く。ルールを守らないことが常態化して、全員がルールを守らない中で一人だけがルールを守ろうとすると、今度はルールを守ることがエラーとなり、ルールを守る者に注意が向く。みんなと同じ行動を取っている人間は、単に周りに同調しているだけであり、責任が分散されるのに対して、一人で調和を乱す行動を取っている人間は、原因が個人にありそうだから責任が一人に集中し、その一人には主体がありそうだと思われる。これだけだとただルールを守らない悪人なだけなのだが、悩む振る舞いがあることで、ルールを守らなかった何らかののっぴきならない理由があると推論するはずだ。すなわちルールを守ることでは得られない相反する価値が存在する可能性が生まれる。そこから現状のルールを守ることの欠点という新規の情報が得られる。

善を行うキャラクターが人間味があると言われ難いのも、問題が起きた場合にのみ意思=責任を確認するからだ。問題が起きない場合はそもそも善意(=過失)か悪意(=故意)かを確認しようとも思わない。問題が発生しなければ他者が何を考えているのかを問う必要はないからだ。問題が発生することで、解決や補償や今後似た問題が発生しない対策をするために、原因や責任を明らかにする必要が生じて、初めて他者に注意を向ける。善は問題を起こさなかったり、あらかじめ指示された「正常」な状態に直すことなので情報がない。だから注意が向かない。善を行う理由を本人の口から語らせると胡散臭くなるのも、善=注意が向かないはずなのに、語りによって注意を向けることに違和感があるからだ。善を行う場合、本人が行動の意図を説明するのではなく、第三者の推論で説明した方がいいわけだ。

問題を起こしたキャラクターは、現在の「正常」の信念を更新させる可能性のある情報と言える。目に見えて変化したり信号があって初めて注意が向くのだろう。あるいは変化や信号がなくとも、放っておくと劣化したり不具合が起きると知っていれば、未然に防ぐために定期的に点検する。壊れ難い物=劣化が遅い=情報が少ないものには注意が向き難い。不変だと安心できれば注意を向ける必要がない。

何らかの「害のある結果」が起きて初めて問題が起きたといえる。しかし、結果が出ていない状態を問題と呼んでいることもある。例えば、病気になっても自覚症状のない初期の段階では苦しいとか死ぬという害のある結果は出ていない。それでも病気だと診断されれば、それを問題だと思うわけだ。それはなぜか。病気だと後々苦しいとか死ぬという結果になることを想像できるからだ。要するに実際にはまだ害のある結果が出ていなくても、「害のある結果になりそう」と想像できることを問題と呼んでいる。そして自分がまだ経験していないことを想像するには、「他者の悩む振る舞い」による情報が有効なわけだ。

これを利用したのが第1章で語った不幸アピールである。悩む振る舞いによって自分の責任をあたかも価値ある情報に見せかけることができる。騙されるアホはいるが、不幸アピールは大袈裟でわざとらしいため、悩みを経験しているのではなく、悩みは演技であり行為になってしまうこともある。不幸アピールによって行為の責任から逃れるつもりが、むしろ「行為の責任逃れの行為」になってしまうということだ。そうなるとただの悪人でしかない。

人間味の致命的な問題点としては、これは理解するための手がかりでしかないということだ。これを完全な理解と勘違いするアホがいるが。第1章でも説明したが、面白さや人間味を持続させようとすると、むしろ理解を倹約することになる。大人か子供、悩んでいるか悩んでいないかで、そもそも相反する価値の知識の有無がわかるはずもない。例えば、キャラクターの目の前で暴力が行われそうな場合に、キャラクターが制止するか制止しないかを迫られた状況を考えてみよう。暴力を制止しようとすると暴力を行いたい人間と険悪になるという問題が発生する。暴力を制止せずとも傍観者のキャラクター自身には問題は起きない。暴力を制止することが調和を乱すことになる。しかし、制止しなければ、加害者は罪に問われ、被害者は死亡するといった可能性があり、暴力をふるった加害者も、暴力をふるわれた被害者も、どちらも失うという問題が発生する可能性がある。制止しても問題が発生するし、制止しなくても問題が発生すると言える。

暴力を制止して加害者1人と険悪になる未来と、暴力を制止せずに2人も失う未来、どちらが損するのかと言えば、暴力を制止しない方である。制止が容易であるなら制止することの方が断然リスクが低いのだが、このリスクの差まで知っているという知識の有無を表情や振る舞いから見分けることはできない。制止することの問題を知らなければ、制止に躊躇することはない。制止することの問題を知っていても、リスクの差を知っていれば制止に躊躇することはない。この二つは知識に差があるにもかかわらず、悩まずに制止するという振る舞いは区別がつかない。悩むのは両方の問題を知っているが、暴力と制止のリスクの差を知らない場合のみで、どちらか片方でも問題を知らない場合、あるいは暴力と制止のリスクの差を知っている場合は悩むことはない。これ以外にもさらに知識があって別のパターンかもしれないし、実際には細かい違いがあるのかもしれないが、それを見分けるのは困難。

暴力を制止するか制止しないかで悩んでいるようなキャラクターに対して、「悩んでいるのは、相反する価値の知識があるからだ」と陶酔しても、その実はリスクの差という知識がないから、選択肢が等価だと勘違いして無駄に悩んでいるアホなだけなのだ。つまり、(相反する価値の)知識があるから悩むとも言えるし、(相反する価値の知識はあってもリスクの差の)知識がないから悩むとも言える。(相反する価値の知識はあってもリスクの差の)知識があるから悩まないとも言えるし、(相反する価値の)知識がないから悩まないとも言える。ひとつのシーンの悩む悩まないという表情や振る舞いからは、知識の有無を正確に見分けることはできない。ひとつのエラーをキャラクター本来の素顔だと考えると、それまで整合していた部分は状況に従って素顔を隠すための偽りであり、エラーこそが状況に左右されない素顔だと錯覚する。ところが、エラーの方が状況に従っているだけの場合なんて多々ある。普段は冷静でもウンコが漏れそうなのにトイレがない時はせっかちにもなるだろう。せっかちにならない人間がいるのか。切羽詰まった時にこそ素顔が出るのであれば、すべての人間の素顔はせっかちなのか。このようにひとつのシーンだけでは正確ではないため、本当にキャラクターの知識の有無を見分ける場合は、全体の繋がりや整合的なエラーだと確認する必要があるのだ。目立つシーンだけ見てキャラクターの素顔だと判断するのは怠慢と言える。

 

プリティーリズム・オーロラドリームのキャラクターに人間味がある理由

大抵の物語はエラー(=悩み)と修正(=解決)によって構成されている。キャラクターが何か悩みを抱えていて、それが解決することで物語は終わるといったものだ。人間味はエラーによって生じるのだとすると、物語が終了地点に近づくと、キャラクターの人間味もなくなってしまうことになる。ところがオーロラドリームでは、複数のキャラクターによって相反する価値が提示されていることで、物語が終了=キャラクターの悩みが解決したとしても、エラーの可能性がなくならない。そのため物語に収まることなく、キャラクターの人間味が持続している。

春音あいらは「夢がない」がないことで悩んでおり、夢を得ることで物語は終わりを迎えるのだが、天宮りずむは「夢がある」ことで悩んでおり、むしろ夢から解放されることで物語は終わりを迎える。お互いにエラーと修正が逆転しているのだ。さらに、あいらは普遍的な価値を求めているのに対して、りずむは特殊的な価値を求めている。そして他の作品であれば正解になるような「いいとこどり」したかのような高峰みおんは、あくまで立場のひとつでしかなく、二人の存在によって霞んでさえいる。お互いがお互いの存在によって、善(=客体=状況の問題)か悪(=主体=本人の問題)かにはっきり分かれずに、価値でもあるし問題が起きる可能性もある人間になっていると言える。

問題が起きる可能性がなければそのキャラクターについて考えることはなくなる。最終的な答えを出しても、その答えにも問題が起きる可能性があると思わせているため、作品が終わっても考えられる余地がある。問題が起きる可能性を抱えていれば、修正の可能性を考えることができ、修正できるということは変化の余地があるということだ。だから、作品が終わった後も変化し続けるだろうと思えるキャラクターになっている。不変ではないからこそ注意を向けられる。壊れない物は点検する必要がない。その変化は当然望ましくない変化も含まれており、今のままではいられず、不安定で変わっていってしまいそうなことに儚さがある。そしてそれこそが人間なのだ。つまり、悩みから問題の可能性を出すのではなく、相反するキャラクターから問題の可能性を出せば、大袈裟に不幸アピールなどせずとも人間味を出すことは可能なのだ。

「視聴者が相反していると思っていても、キャラクター本人は相反していると思っていなければ、キャラクター自身が変化する可能性にはならないのでは」という反論があるかもしれない。しかし、あいらもりずむも本人が相反する価値観を持っている。例えばあいらは第10話や第34話などでは恋愛感情が描かれているし、 りずむは第9話や第43話では観客のことを意識している。「一人のキャラクターの中に相反する価値観があれば、複数のキャラクターを描く必要はないのでは」という反論があるかもしれない。しかし、本人の中に相反する価値観があったとしても、それは価値観であって価値ではない。価値となるためには実際の行動が必要なのだ。そして行動においては出せる答えはひとつしかありえない。みおんがひとつの立場でしかないのはこのためだ。

例えば、ジャンケンで手を変化させるまでは、グーを出すか、チョキを出すか、パーを出すか、様々な可能性を思い描いているはずだ。しかし、実際に手を出した瞬間にひとつに固定される。つまり、価値観の場合は無限に可能性はあるが、無限に可能性がある限りは問題は起きない。行動した場合はひとつの可能性に固定され、他の可能性は切り捨てられ、行動の責任を負わなければならない。相反する価値から問題の可能性を出すには、相反する価値観ではなく、相反する行動とその行動の結果の機能が必要なのであり、そのために複数のキャラクターが必要なのだ。悩みというのは相反する価値の可能性でしかなく、悩みのみでは価値を提示していることにはならない。悩みを解決しないまま終わらせる場合も人間味が持続すると言えるが、それは何の価値も提示していない。

根拠がない自信があるキャラクターの自信は、根拠がないからこそ揺るがない強さがあるが、それゆえに変化の可能性がなく、不幸アピールでしか人間味を出せない。それに対してオーロラドリームのキャラクターの自信は、作品内の経験に由来している。根拠は経験なため、この先の経験によってまた揺らいだり変わっていってしまう可能性がある。だから不幸アピールなどせずとも、変化の可能性を予想し注意を向けることが可能=人間味があるのだ。

 

心をつくる―脳が生みだす心の世界

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