プリティー研究所

プリティーリズムの考察など

プリティーリズムを認知神経科学と社会心理学の本を参考にして考察する 第4章 坪田文の問題と菱田正和の問題

前回の第3章では、オーロラドリームは自分本来の輝きなんてものはなく、他者の作った服や「他者のおかげ」で輝かせてもらっているという物語であり、服の組み合わせによってプリズムジャンプが変化する原作ゲームと調和したことこそが新規性であったはずが、それ以降のシリーズでは他者によって抑圧された自分本来の輝きを解放するといった作品になったことを明らかにした。

今までの章をすべて踏まえた上で、この第4章では、プリティーリズムの問題の核心に迫りたいと思う。

坪田文の問題

監督の菱田正和は「マジなめんなよ事件」*1でも言っていたが、「すべて監督である自分に責任がある」「スタッフを守るのが監督の仕事」「面白くなければ全てこの菱田の責任」*2ということをレインボーライブの頃に度たび口にしている。これは「大黒柱として立派」とも言えるのだが、スタッフの失敗は自分の失敗とも言わんばかりの責任感は、他のスタッフは責任能力のない子供で、子供の尻拭いをしてあげなければならない親のつもりのような印象を抱く。このように庇われた脚本家の坪田文は、インタビューでこんなことを言っている。

「正解はこれです!」と提示していないアニメなので、Twitterやお手紙でそれぞれ視聴者の皆様がいろいろな解釈をしてくださっていました。答えや生き方はひとつではないので、それぞれが感じたことが正解なんだと思います。『プリティーリズム』はそんなアニメだと思いました。

坪田文はディアマイフューチャーで脚本を担当した第50話の「みんな一番」という台詞が顕著で、「みんな一番」や「それぞれが感じたことが正解」は、「みんな一番だと認めてやる自分が一番」「それぞれが正解だと認めてやる自分の立場が正解」という優越感を得たいがための遊びでしかない。「それぞれの感じたことが正解」を前提にした議論は事実を明らかにしないため「共感的理解」しか生まず、そうなると風評被害や偽医学が蔓延し、下手をすれば命を落とすことになりかねない。

「みんな一番」で「それぞれの感じたことが正解」なら自分は何を主張しても間違っていないし、間違っていないなら自分の言動の責任を取る必要はない、という責任感のなさの現われ。自分が間違っていると認めたくないが、立証する手間もかけたくない。そういう人間の論法だ。しかも「それぞれの感じたことが正解」は正解を探求する手間をかけずに出せる手抜きの正解であり、根拠を提出せずにお手軽に自分を絶対的な立場に置ける。それは現実から目を背けたまやかしの全能感でしかない。そのような主張はひとつの立場でしかなく、しかも不幸アピールにしてもそうだが、事実を明らかにするための対立を、無意味な主張で混乱させているにすぎない。

菱田は他のスタッフの責任にすらも過剰に干渉して庇う責任感がある。責任感と実際に誰が責任を取るのかは別だが。それに対して坪田は責任感自体がない。「それぞれの感じたことが正解」というのは、頭の中に留めておくなら人それぞれとしても、他者とコミュニケーションを取るために言葉や行動として表現した時点で、それは期待や要求であり、他者への影響が生じる。正誤の対象となり評価の俎上に載るのだ。にもかかわらず、事実から逃れられると思っている態度が、プリティーリズムの問題点に繋がっている。

タカラトミーアーツ アミューズメント事業部の大庭晋一郎はこのようなことを言っている。 

「本当」とは何か。人は現実の認知の仕方も虚構の認知の仕方も変わりはない。たとえ虚構だとしても、その表現物が現実に存在している時点で人に影響を与える。単に虚構は遊びであること、限定的状況であることから、真面目に受け止めるなということを「期待・要求」されているだけである。虚構の「正解」を確かめようとしない人間が、現実でも何が「本当」なのかを確かめているとは到底思えない。現に坪田文はこのような発言がある。

https://twitter.com/tsubofumi/status/1010745382857367552

坪田の「それぞれが感じたことが正解」という作品の解釈における態度と、「私の意思ではない」という現実の脚本家の仕事における態度が、作品はそれぞれが感じた正解という読者の意思(=責任)であり、作者の意思(=責任)ではないという点で一致している。解釈は人それぞれである。しかし、その解釈を言葉や行動として表現した時点で、その解釈の表現物は現実に存在することになる。現実に存在するのだから、表現内容が虚構だと合意していたとしても、表現物に正誤はある。

例えば「ウ〇コがある」と表現すれば、ウ〇コがなかったとしても、「ウ〇コがある」という文にはどういう意味があるのかに正誤はある。「ウ〇コがある」を「あなたのことが好きです」と解釈するのは誤りだろう。「ウンコがある」が正解であり、排泄物の存在を伝えるという意味がある。「ウアコがある」「ウイコがある」などの解釈もありうるという反論があるかもしれないが、そんな言葉はこの世のどこで使われているのか。作品独自の用語かもしれないが、勝手に作品独自の用語かもしれないと解釈するのは誤りである。一般的に使われていない意味不明の言葉を使う場合は、あらかじめ実践や意味の説明をしておかなければ解釈不可能であり、作品内で事前にその言葉が使われる状況の再現や、その言葉の意味の説明がなければ、事後の言い逃れである。「ウンコ」以外を正解にしたいなら、「ウンコ」という解釈では矛盾する表現をしなかったことに問題があり、一般的に流通している言葉である「ウンコ」の存在を考慮しなかった作者のミスである。ウンコが存在しないのに「ウ〇コがある」という排泄物の存在を伝える意味の表現をしたらそれは嘘だ。嘘をつくつもりはなかったと言っても、ウンコが存在しないのに「ウ〇コがある」という排泄物の存在を伝える意味の表現をしたことは事実だ。「嘘をついた」その事実からは逃れられない。虚構であろうがなかろうが、作者の自覚的な意図があろうがなかろうが、言葉や行動という表現物には期待や要求があるのだ。それは他者に影響を与えることになる。だから自分の表現は自分が思った通りに解釈できるのか、自分が思った通りに正しく表現できているとしても、その自分の表現によって問題が発生しても責任を取るだけのプライドを持てる表現なのか、それらを事前に熟慮する責任感がなければならない。視聴者が全員「遊び」「ジョーク」であることに合意してくれるとは限らない。子供の場合は特にだ。

心的世界のモデルが誤っている場合には、そう簡単に他者のモデルと照らし合わせることはできない 。しかしこのような誤ったモデルは他の人にすっかり共有されてしまうことがある。これが「フォリ・ア・ドゥ」(二人組精神病)と呼ばれるもので、二人かそれ以上の人たちが同じ精神病的な妄想を共有した状態をいう。

(中略)

誤った信念がもっと大きな集団で共有されると、真実はずっともろいものになってしまう。「ジョーンズタウンの大虐殺」はその一例だろう。

1978年11月18日、ガイアナのジャングルを切り開いた一角で、ジム・ジョーンズ師が信者911人にシアン化合物を服用して自殺するように命じ、全員がそれにしたがった。

ジム・ジョーンズはカルト宗教のカリスマ的指導者であった。彼はほぼ間違いなく精神病患者だった。彼は謎の失神状態をわずらい、宇宙人からのアドバイスを聞き入れ、人々に心霊療法を施し、核による破滅という幻影を見ていた。彼は信者たちをガイアナのジャングルの奥深くに導き、そこで社会から隔絶したコミュニティを形成した。そこに住む人々は、正体不明の敵や破壊者に怯えながら暮らしていた。その敵は天から降りてきて無慈悲な殺戮を行うと思われていた。集団自殺は、合衆国の国会議員が調査に訪れた直後に起こった。この調査団は、コミュニティには意思に反して囚われている人々がいるという主張を受けてやってきたものだった。

(中略)

脳が一人の心から他の心へと考えを伝える能力は、利益だけでなく恐怖をももたらす可能性がある。

クリス・フリス『心をつくる―脳が生みだす心の世界』p231-233

 

菱田正和の問題

菱田正和プリティーリズム・オールスターセレクション アニメ公式ガイドブックでこのようなことを言っている。

坪田 あいらも、ディアマイフューチャーのみあも、3人ともそうだと思うんだけど、最後のきれいごとを通すために、どろどろしたことをやってる気がする。

菱田 なるはあんまりきれいごとに引っ張られないようにした結果、みんなから地味だと言われる羽目に。でもあれが僕にとってはリアルなんだよな。

坪田 うん。なるはいいんだよそれで。

菱田 あいらの時に、きれいごと言いすぎて気持ち悪くなっちゃったんです。

坪田 そんなにきれいごとだっけ? 

菱田 きれいごとじゃーん。「みんなの想い、受け取ったよ!」だよ?

一同 (笑)

――阿世知今日子のために跳ぶ、みたいな感じでしたね。

菱田 そう。本当のアスリートは、常に不安に駆られていて、寝ていてもライバルがトレーニングしているんじゃないかって追い込まれて、夜中突然起きて、腹筋するって言ってましたよ。十種競技をやってた頃の武井壮がね。だから、べるのああいう感じがリアルなんですよ。彼女は自分の中の自分を越えていく。あれこそが本当のチャンピオンじゃないかと思うんですよ。

プリティーリズム・オールスターセレクション アニメ公式ガイドブック p118

この発言でショックを受けて不眠症になった。と不幸アピールでもしておこう。菱田は「(アニメは)将来生きるための知恵を授けてあげなくてはいけないんじゃないですか」とも言っている。「自分の中の自分を越える」だのと陳腐なコマーシャルのキャッチフレーズのような自己啓発をするのが本当のアスリートとは到底思えないが、アスリートを職業にできる人間はたいていが経済的にも身体的にも恵まれた人間である。アスリートというのは特殊な職業であり、その生き方は一般化できる生きるための知恵になるようなものではない。単なる特定の条件への最適化であり、特定の条件に最適化できない人間は排除され、最適化できなくなった人間も引退を余儀なくされる。社会においてそのようなシステムは情報伝達に非効率だからこそ、珍しい生き方として興行・娯楽になるわけだ。そしてその特定の条件を定めているのも他者であり、興行・娯楽として認められ、それで飯が食えているのも他者のおかげである。

現実においては経済的・身体的に恵まれたおかげで成功できるにもかかわらず、精神力や自助努力といった「綺麗事」のみで成功したと錯覚させるような作品は、弱者は「意欲がない」「自助努力が足りない」から自業自得だという思い上がりを生む。別に自助努力に意味がないと言っているわけではない。しかし、意欲を持てたり正しい努力を行えるのは経済的に恵まれた者である。周囲からのフィードバック、先人の知恵、効率的な機材、生活の心配がないことによって一つの物事に集中できる認知資源の余裕といったものは金がなければ得られない。その事実を置き去りにしたまま精神力や自助努力だけを美化しても、それは成功者の特権意識をくすぐるだけであり、弱者に余計無理を強いることになる。金のない自助努力は「頑張っている雰囲気」に酔うだけで無駄に時間を浪費することにしかならない。金を使って他者の協力を得られる優れた環境に身を置かなければ、意欲も持てない、成功のための効率的で正しい努力もできない。にもかかわらず、不幸アピールだの苦労自慢することで恵まれているという事実を隠蔽し、自力で成功したと思い上がり、「他者のおかげ」を綺麗事だと言うような作品は、現実を描いていないし、子供のためになどならない。単なる成功者への迎合だ。

知的好奇心とは、その妨げになるものを取り除くだけで花開く「自然な」心理状態ではなく、意識的に取り組むべき共同プロジェクトなのだ。デジタル機器や自分専用の道具を与えただけでは、子どもは正しい情報を得ることも、集中力を保つこともできず、やる気を失ってしまう。このことはスガタ・ミトラのような改革者たちが何とかして助けようとしている子どもたち、つまり貧しい生まれの子どもたちに、とりわけ当てはまる。

ミトラの研究はとても興味深く、多くの点で感動的だが、彼が導いた結論は危うい誤解を与えかねない。知識を積み重ねることは充実した長期記憶を構築するために必要であって、時代遅れでも何でもない。知識こそが、私たちの洞察と創造性、好奇心の源泉なのだ。「好奇心駆動型」の教育スタイルの致命的な欠陥は、好奇心が知識の獲得の原動力になるのと同じくらい、知識が好奇心を育む原動力になることを見落としている点である。人はそもそも、自分の興味の範囲外にある事柄を学ぶのが苦手だ。だから、とくに子どものうちは他人の力で適切な場所に導いてもらう必要がある。

教育の分野においては、好奇心は過小評価されると同時に過大評価されるという不思議な位置に置かれている。学校制度はともすると、学習に喜びを吹きこむことを軽視し、試験や就職に向けた準備ばかりを優先する。それも大事なことではあるが、現在の教育事情に弊害があるのは明らかだ。それから、子どもの好奇心は解き放ってやるだけでよいという先入観にも問題がある。好奇心を解放するだけで素晴らしい知的発見の世界が広がるとしたら喜ばしいことだが、実際はそうはいかない。学校が知識のデータベースの構築を放棄するなら、多くの子どもたちは自分がまだ何を知らずにいるのか知らないまま成長する危険がある。そうなると自分自身の無知に関心をもつこともなく、自分より豊かな知識をもつ――したがって好奇心の旺盛な――同級生に比べて一生不利な立場に置かれることになる。やがては自分が二極化した好奇心の不利な側にいることに気づくだろう――大人たちがそのような状態を食い止めないかぎり、彼らの未来はしぼんでいくしかない。

イアン・レズリー『子どもは40000回質問する あなたの人生を創る「好奇心」の驚くべき力』p163-164

「他者のおかげ」や「他者のため」を綺麗事だと思うような人間だから、レインボーライブのような合理性が欠如した作品になったのである。「他者のため」を想わずにどうやって社会が成り立っているのか。安寧で豊かな生活のためには「他者のため」を想った行動を取ることが合理的だからだ。「他者のため」を想わない人間は誰の協力も得られないし、社会秩序が維持されない。誰もが本来持っているプリズムのきらめきという名の道徳性があるはずだと期待するのは、それこそが現実の問題解決には何の役にも立たない綺麗事に他ならない。「将来生きるための知恵」と言いつつ、アスリートという特殊な例を持ち出し、自分が共感だの陶酔できる範囲にしか目が向かない菱田の態度が、「他者のため」を想わなければ社会は崩壊することを証明している。「他者のため」を思わず成り立つような社会は、全員が顔見知り、全員が身内のような狭い村社会のみである。

遠藤は、共感が常に人を救い社会をよい方向に導くのではなく、場合によっては人を傷つけ正義をゆがませるという限界を持つことを指摘している。この指摘は、ある他者に共感したり、また自分に共感してくれていると認知したりすることでつながりが深まることが、それ以外の他者を排除することへの、警告でもある。「私に共感する心を持つ」存在として他者を認めることの大切さをかみしめつつも、それがもたらす問題点を心に留めておくことが必要なのかもしれない。

唐沢かおり『なぜ心を読みすぎるのか: みきわめと対人関係の心理学』p278

他者の存在は、一般に社会的に望ましい行動を促進する。その背後にあるメカニズムについては、他者からポジティブに評価されたいという動機や、進化的に獲得されてきた利他的な傾向性など、研究者の立場により異なるレベルの説が述べられる。もちろん、これらは矛盾するものではなく、「動機」またはポジティブに評価されたいと思う気持ち自体が、「進化の産物」だと考えることもできるだろう。

ただ、背後のメカニズムには諸説あるとしても、ここで重要なのは私たちが「よいふるまいをする」という行動への影響だ。たとえ自分にコストがかかる場合であっても、他者の存在を認識すると、私たちは協力や支援などの望ましい行動に携わるという傾向が、多くの研究で確認されている。例えば、他者が存在する場面で、反社会的になる傾向が下がったり、道徳的によい人間とみられるようにふるまったりすることは、かなり以前の研究からも明らかになっている。

このような他者の存在の効果について、比喩的に他者の「目」を意識しているがゆえだという表現がよく用いられる。興味深いのはこれが単なる比喩にとどまらず、まさに「目の存在」を操作した研究で、同様の結果が見られることだ。

唐沢かおり『なぜ心を読みすぎるのか: みきわめと対人関係の心理学』p280 

この他者の存在を認識すること、他者の「目」を意識することを手放したのが、レインボーライブ第34話の「他人の視線なんて気にしてないわ」という台詞である。「他者のため」「他者のおかげ」で成立しているのが現実の社会であり、「他人の視線なんて気にしてないわ」という台詞こそが、現実から乖離した綺麗事に他ならない。これを主張するのは「他者の視線を気にしないことを美徳とする他者」の視線を気にしている。第3章でも説明した通り、自分の自由な意思だと思っていても、他者や環境の期待や要請に応えているだけだということに無自覚だから、このような自家撞着が起きるのである。

「生きるための知恵」と言うのであれば、自己の延長にある情報網の家族や仲間、共感する人といった強い繋がりだけではなく、新規の情報網の観客や共感しない人といった弱い繋がりであっても公平に大切し、肩入れしすぎずに広い範囲に目を向けて為すべきことを判断できるように導くべきである。菱田は家族や仲間、共感する人といった強い繋がりだけが大切で、それ以外を大切にするのは綺麗事であり、「僕にとってのリアル」という「共感的理解」できる狭い範囲にしか目を向けない。要するに「マジなめんなよ事件」の時の菱田の坪田への擁護は「他者のため」ではないのだ。家父長的な菱田にとってスタッフという身内は自分の意思でコントロール可能であり、対等な他者だと思っていないので、「スタッフの失敗は自分の失敗」「坪田の擁護は自分の擁護」であって「自分のため」なわけだ。身内の責任は自分の責任だと考え謝罪し、身内への批判は自分への批判だと考え激昂する。これが菱田の「リアル」である。

なぜ自分や身内のためだけを想うことが「リアル」だと菱田は思っているのか。それは互酬性にある。自分が相手に何かを与えたら、相手も自分に何かを返さなければならないという心理だ。特に身内というのは、自分の行いが直接的に返ってくると期待できる。それに対して例えば一度しか会わないような他者などは、今後二度と会うことがないのだから、そんな他者にgiftしても直接的に返ってくることはない。二度と会わない相手にはルールを守らせる拘束力が働かないため、自分もルールを守ってやる筋合いはないということだ。だから身内に属さない他者のためを想う人間は合理的行動ではなく、綺麗事でしかありえないと思っている。直接的に返ってこなくても、投資によって発展することで間接的に恩恵を得られるのだが、「自分の幸せは他者のおかげ」で成り立っていることに無自覚だから、身内に属さない他者のためを想うことは「リアル」だと思えないというわけだ。

菱田正和という人間は、1972年10月21日に宮城県仙台市で生まれ、ジョジョの奇妙な冒険の作者の荒木飛呂彦と同じ東北学院榴ケ岡高等学校*3を卒業した後に、受験失敗しても一浪*4する余裕があり、法政大学*5経済学部に入学した後も遊びほうけて*6単位を落とし留年し、メーカー系の内定をもらったが記念でサンライズの入社試験を受けたら通って、サンライズに制作進行として入社したらガンダムの監督の富野由悠季に絵コンテを見てもらい、∀ガンダムで初めて絵コンテに参加させてもらい、32歳の時に陰陽大戦記で初監督、結婚して子供も生まれ、ブリッジの社長からは好かれ*7、手がけた作品のファンからはアイドル扱い、玩具会社からは自由にアニメを作らせてもらえる、まさに人生の勝者。このように現実で苦労知らずの人間だからこそ、現実と違って刺激のあるフィクションに陶酔できる。「勝者よりも勇者」と言いつつ、自分は勝者なわけだ。「雨が降らなければ虹は出ない」と言うのは、成功者が弱者に甘い言葉で希望を持たせて搾取するための幻想なわけだ。

「苦労していないなんて勝手に決めつけて人を見下すのはよくない」という反論があるかもしれない。「不幸になれと言うのか。不幸なんてないに越したことはない」という反論があるかもしれない。尤もだが、それは不幸アピール陶酔人間が行ってきたことだ。不幸アピールなんて行わずに他者から罵声を浴びせられても他者のために黙々と努力してきた人間を苦労していないだとか綺麗事だとか勝手に決めつけて見下す不幸アピールを美化して描き続けてきた菱田をむしろ批判することになる。

「僕にとってはリアル」なんていうのも、「リアルに感じる」というのは注意が向いている状態のことでしかなく、意識的にリアルに感じられることがリアルとは限らない。意識的にリアルに感じられないからと言ってリアルではないとも限らない。むしろ非リアルであることの方が意識的にリアルだと感じやすい。「リアルとは何か」と聞かれて答えられるだろうか。答えに窮するのではないだろうか。リアルとは自分にとって当たり前であることなので、注意が向き難く、意識的に把握することが難しい。それに対して意識的にリアルだと感じられることは、注意が向けられることであり、それは自分の日常に反することだからこそ注意が向きやすい。つまり、菱田は日常的には「他者のおかげ」の恩恵を受けているから注意が向かず「綺麗事」などと貶め、「他者のため」を想わないことは意識的にリアルだと感じて陶酔できるわけだ。

ちなみに、フィクションで「現実を描け」だとか「教育をしろ」と言いたいわけではない。菱田正和は自らがリアルだとか教育だとか言っているので、プリティーリズム・レインボーライブはまったくリアルでも教育でもないということを指摘している。

Q.みなさまにとってプリティーリズムとは

菱田 僕は教育ですね。僕は娘が二人いるんですけれども、あのこの三年分見れば、人生乗り越えられるヒントが必ずあるはずと、思って作りましたこれは、はい。そうですね、あの綺麗事とかそういうことではなく、苦しいことばっかりじゃないですか生きてると。そんなことないのみんな?みんな楽しいの?僕は苦しいことばっかりなんですけど。それをね、乗り越えるために何が必要かって、ちゃんとこうなんかはい、学び取ってほしいなと思って作りました。

プリティーリズム・オーロラドリーム BDBOX 特典座談会CD 42:31-43:11

 

第4章まで続いたプリティーリズムと出会ってから8年間の憤りは以上だ。