プリティー研究所

プリティーリズムの考察など

オーロラライジングとプリズムジャンプの意味を考察

神崎そなたは何がやりたかったのか

神崎そなたについては主に第13話、第48話、第49話で語られている。第48話で説明されるそなたの過去は、そなたは両親がおらず、身を引き取られた先では朝から晩まで店を手伝わされ、何も楽しいことはない、何のために生きているかわからない、そんな毎日が続いていた。そんな時、阿世知今日子のプリズムショーを見て、生きる力をもらった。それからプリズムショーを始め、ティアラカップでの優勝を機に一気にスターダムを駆け上がる。そして龍太郎と出会う。

ここからは第13話に繋がり、そなたは今日子とは因縁のライバル関係と呼ばれるほどとなり、プリズムクイーンの座をかけて対決する。そなたは敗北し、今日子がプリズムクイーンの座に輝く。その後今日子に勝つために特訓に励む中、りずむを妊娠していることに気づく。そなたはりずむを出産するが、売れないアイドルだった龍太郎は無断で結婚していたことを事務所から責められ、結婚出産が表沙汰にならないように引っ越すことを命じられる。

それでもりずむがいるだけで幸せだったが、そなたは「幸せすぎて怖い」「いつ昔みたいに戻るかと思うと」「こんな幸せもう二度とやってこない」「もう何も失いたくない」と怯え始める。それと同時に龍太郎がアイドルの仕事を失ったのは自分のせいだと責任を感じている。そんな折、テレビで今日子の姿を見て、プリズムショーに戻りたいと龍太郎に告げるが、龍太郎はりずむの育児を理由に反対する。そなたはテレビで今日子が伝説のジャンプ、オーロラライジングを飛ぼうとしていることを知り、「今日子が助けを求めている」「今のままでは私も今日子も駄目になってしまう」と龍太郎に再度訴える。龍太郎の反対を押し切り、そなたはオーロラライジングを飛ぶため、考案者であるケイの家を訪ねる。

ケイ曰く「オーロラライジングは真剣にプリズムショーを愛し、リンクとエンゲージした花嫁だけが飛べる」「そのために失うものは多い」。そなたは特訓を始め、次第にりずむと龍太郎を疎ましく思うほど特訓にのめりこむ。この特訓は一年間続いた。そして今日子との対決の日、そなたは見事オーロラライジングを飛び、今日子との対決に勝利する。しかし、オーロラの中でりずむと龍太郎の姿を見たことで、家族のことを考えてしまったのは真剣にプリズムショーを愛するという条件を満たしていないことなので、自分のオーロラライジングは未完成だと思い込む。完成させられなかった上に、一年間家族のことを忘れていた自分を許せず、失踪する。

その後、ロシアのサーカスで働き、孤児のかなめと出会う。最初から家族がいないかなめならオーロラライジングを完成させられると考え、飛んでほしいとお願いする。失踪してから13年が経ち、そなたはかなめに「プリズムジャンプに心は必要ないわ」と指導し、プリズムクイーンカップオーロラライジングを飛ばせようとする。しかし、第49話のプリズムクイーンカップで、かなめはオーロラライジングに失敗する。そなたはかなめがなぜ失敗したのかわからないでいると、ケイに「人は本当に大切なものをどんなに捨てようとしても絶対に捨てることはできない」「あなたがオーロラの中で見たものは心の中で輝きを放つ最も大切なもの」と言われ、13年前の時点で完成していたことを知ってショックを受ける。ロシアに帰ろうとするが、空港でりずむに引き留められる。

 

ここまでがそなたの主な行動である。最初に突っ込みたいのは、そなたはどうして失踪したのか。一年間家族のことを忘れていたことを悔やむのに、失踪してさらに13年間も家族と一緒にいられないような行動を取るのか。考えられるのは、そなたは一年間家族のことを忘れて特訓したにもかかわらず、オーロラライジングが未完成では、一年間家族のことを忘れて特訓した時間が完全に無駄になってしまう。失った時間は取り戻せないのだから、後悔しているならこれからの家族との時間を大切にすればいいのだが、人は損失を避けようとする。オーロラライジングを完成させれば、失われた時間にも意義があったことになるという埋没費用にとらわれ、オーロラライジングのために一年間家族のことを忘れたことを悔やんでいるにもかかわらず、追加で13年間も失踪するという行動を取ったと思われる。

そもそもとして、そなたはなぜプリズムスターに復帰しようとしたのか。家族といるだけで幸せだと言うのに、わざわざ家族と会える時間が少なくなるような行動を取るのか。考えられる説としては、「今日子が助けを求めている」という台詞があるので、今日子のためという説。今日子のプリズムショーに生きる力をもらったので、今日子と切磋琢磨することがその恩返しだと思ったのかもしれない。あるいは、鬱などの何らかの病気。余計な自責の念に駆られたり、「幸せすぎて怖い」という発言もそれが原因だろう。プリズムスターに復帰する前に病院に行けばよかったと思われる。

スタッフの与太話として金のためという説もある。第13話でそなたがアンディを縫っているシーンの部屋と、結婚後のそなたたちが住む部屋を見比べると、グレードが落ちている。龍太郎は「売れないアイドル」で、その仕事すら失った龍太郎では碌に稼ぎがなく、生活に困窮したために、賞金を求めてプリズムスターに復帰することを望んだという説である(ちなみに現在の龍太郎は、輸入自動車のディーラーを経営しているという裏設定もあるため裕福である)。しかし、金のためなら大会の賞金でなくてもいいし、ましてやオーロラライジングに挑戦する必要がない。今日子には勝てないかもしれないが、今日子に勝たなくても金は稼げる。金のためという説では描写に対して納得いく説明ができないため、脚本家や他のスタッフを無視した勝手な解釈だと思われる。

そなたがプリズムスターに復帰しようとした理由に関しては、矛盾がない複数の解釈が可能ではある。複数の要因が複合的に関係しているとも考えられるが、いずれにしても、13年前のそなたの描写には「家族と一緒にいるよりもプリズムショーを求めた」という意味があるのは確かである。病気であればそなただけの責任とは言い難いが、そなた自身は自分の選択したことだと思って後悔している。自分の選択の責任を取るために、余計損失を出すことになっても、オーロラライジングの完成という一度選んだ道を完遂するまで止まれないわけだ。

 

阿世知今日子は何がやりたかったのか

阿世知今日子については主に第41話で語られている。今日子は、小さい頃から母親のケイの指導のもと、プリズムスターとしての英才教育を受けていた。ケイとの関係は良好だったが、父親が家を去ってから反発するようになった。プリズムショーの試合に勝つことは、ケイへの反抗だった。そして14歳でプリズムクイーンとなるが、満足感はなく、虚しさだけだった。そんな時、神崎そなたが現れた。そなたとの初めての対決では、僅差で今日子が勝利したが、そなたの衣装が何者かにボロボロにされていたにもかかわらず僅差だったため、対等の条件なら敗北だったと思い、今日子は初めて敗北することを知った。それからはそなたと対決するのが楽しみとなり、互いを高めあっていった。

今日子はケイから「オーロラライジングを飛ぶことはできない」と言われたため、ケイを越えるオーロラライジングを飛ぼうとする。そなたにケイのオーロラライジングを飛ばせて、自分がそれを上回ればケイを越えたことになると考え、引退していたそなたを呼び戻そうとする。そしてそなたとの対決の日、そなたはオーロラライジングを飛び、今日子は飛べずに敗北した。その後、そなたは失踪し、今日子はそなたを越えるオーロラライジングを飛べば彼女が戻ってくるかもしれないと思い、何度も挑戦し続けるが、結局飛べないままプリズムショーを引退した。

引退後、今日子はプリティートップというプリズムスターを目指す人が通うスクールを設立する。クリスタルハイヒールカップにて、今日子の前にそなたが再び姿を現したことで、今日子はプリズムクイーンカップオーロラライジングを飛んでほしいとあいらに懇願する。本来世の中で言われているほど恐ろしいジャンプではなく、正しい知識と練習、コーデさえしっかりすれば理論上可能だという。その指導のもと、あいらは練習し、オーロラライジングに成功する。

 

ここまでが今日子の主な行動である。ひとつずつ不思議な部分に突っ込んでいく。まず、プリズムショーの試合に勝つことがケイへの反抗だったとはどういうことなのか。勝つことがなぜ反抗になるのか。ケイは今日子にプリズムショーで勝つことを望んでいなかったのだろうか。例えば、ケイは今日子に目先の勝ち負けよりもプリズムショーを究めてほしいと思っていたとする。今日子はそれに反抗して、勝つことだけを目的にしてプリズムショーを究めることは疎かにしたというなら納得いく(究めようとせずに勝つことは可能なのかは疑問だが)。では、なぜ今日子はプリズムクイーンになっても満足感はなかったのか。勝利することがケイへの反抗なら頂点のプリズムクイーンになるのは大成功のように思える。それなのになぜ満足感はなかったのか。

考えられるのは、ケイのやり方よりも自分のやり方が優れているとケイに認めさせたいと思っていたからではないか。試合に勝利すればケイに認めさせることができると思っていたが、頂点のプリズムクイーンになってもケイは認めてくれなかった。ケイは試合の勝ち負けではなく、何らかの独自の基準で良し悪しを判断しており、プリズムクイーンになっても今日子を認めることはなかった。だから今日子は満足感がなかったのではないか。

そなたに僅差で勝ってからはそなたとの対決が楽しみになったと言っているが、これはどういうことなのか。考えられるのは、第41話の回想において、今日子はオーロラライジングを越えるジャンプを飛ぶとケイに豪語し、新しいジャンプを飛んでそなたとの対決に勝利した後に、「私は神崎そなたでも飛べないジャンプで勝ったのよ」と報告している。これは今日子はそなたに勝つことをケイに認めさせるための目安にしていたと考えられる。ケイの判断基準においては、プリズムショー界全体のレベルが低く、いくら今日子が試合に勝利しても認められない。今日子もそなたとの対決で「初めて負けることを知った」と言っているように、そなた以外には負けそうになることすらなかったため、いくら勝ってもケイに認めさせることはできないと気づいていたと思われる。そこにそなたが現れ、自分を負かせる実力のそなたに勝利すれば、以前の自分よりも実力が上がった証拠であり、ケイに認めさせることができるだろうと思った。あるいは、ケイがそなたにオーロラライジングを教えたのは実力を認めていたからで、実力を認められているそなたに勝てば、ケイに認めさせることができるだろうと思い、そなたとの対決が楽しみになっていったのではないか。

結局のところ、ケイへの反抗のはずが、今日子はケイの基準に合わせていたと言える。嫌がらせするにしても、相手が嫌がることという相手の基準に合わせなければならないので当然ではある。ただそうなると、ケイはなぜ今日子に「オーロラライジングを飛ぶことはできない」と言ったのだろうか。今日子は勝利だけではケイに認めさせることができないと気づいたため、そなたを目安にしてケイが認めるであろうプリズムショーの実力を上げる方向にシフトしたはずだ。

今日子は最終的にプリティートップというプリズムスターを育成するスクールを設立して成功を収めている。今日子はケイの基準に合わせるのではなく、プリズムショーで人々に貢献することに適性があったのではないか。それなのに、プリズムショーを母親に自分を認めさせるためだけの手段にして、自分の適性に気づいていない。だから苦言を呈したのではないか。ケイが今日子に「オーロラライジングを飛ぶことはできない」と言った理由を、「母親に認められたいという動機でプリズムショーを行うこと自体が原因」と考えた場合、りずむもまた似たような動機でプリズムショーを行っており、それならりずむも飛ぶことは不可能であり、ケイはどうしてりずむには指導したのかを説明できない。なので、母親に認められたいという動機に苦言を呈していたのではなく、今日子の適性に合っていないから苦言を呈していたと考えられる。

今日子がそなたとの対決が楽しみだった理由は、そなたを目安にすればケイに認めさせることができるからというよりも、純粋にそなたと高めあうことが今日子にとっての「本当に大切なもの」だったからなのではないか。それなのに、ケイに認めさせるためにそなたを利用し、プリズムショーの発展を目指して高めあえる存在を失ってしまったことに気づいたから、今日子は後悔したのだろう。今日子が独自に危険ではないオーロラライジングを飛ぶ方法を考え、実証しようとしているのは、ケイに自分のやり方を認めさせるためではなく、これ以上ケイのやり方によってプリズムスターの未来が閉ざされるのを防ぐためという動機に変わっていたからなのではないか。

仮に今でも今日子の動機がケイに認めさせるためなら、りずむがケイのもとに行くことを反対しないはずである。そなたを利用した時のように、ケイが指導した者がいなければ、ケイを越えた目安にはならないからだ。今までの描写における今日子の思考からすれば、ケイに認めさせるためならケイにりずむを指導させて、そのりずむに自分が指導したあいらが勝利することを望むはずである。しかし、今日子はりずむがケイのもとに行くことを反対していたので、今でも今日子はケイに認めさせることを目的としているという動機では説明できない。

いずれにしても、13年前の今日子の描写には「プリズムショーよりも母親からの承認を求めた」という意味があるのは確かである。そもそも今日子はテレビで挑戦していることを明かしただけで、そなたが失踪したのは今日子の責任とは言い難いが、今日子は自分の選択したことだと思って後悔している。

 

プリズムジャンプの意味

プリズムジャンプを飛ぶための条件とは何か。第1話では、純さんにプリズムストーンを渡されてプリズムショーデビューさせられたあいらが初めてプリズムジャンプを飛んでいる。第2話では、あいらに服をコーディネートしてもらったりずむが初めてプリズムジャンプを飛んでいる。いずれも共通しているのは、他者に服を見立ててもらったことで新しい情報を得て、プリズムジャンプを飛べるようになっているということである。

プリズムジャンプを飛べない場合は、必ず当初からある自分の心で飛ぼうとしている。プリズムジャンプが飛べない描写は、第1話のりずむ、第7話のりずむ、第37話のあいら、全部で3回ある。第1話でりずむがプリズムジャンプを飛べないのは、他者によってもたらされた情報がなく、りずむは当初からある自分の心で飛ぼうとしているからだと考えられる。同様に第7話でりずむがプリズムジャンプを飛べないのも、あいらと喧嘩したことで第2話であいらにコーディネートしてもらった服から当初のジャージ姿に戻る=当初からある自分の心に戻ったからと考えられる。第37話のあいらは、ストーリーの中で自分が行うプリズムショーを見て喜んでくれる人がいることで自信を身に着けて来たはずが、あいらのプリズムショーをコピーできるかなめによって、あいらがプリズムショーを行うことに価値は無くなり、ストーリーの中で得た自信は振り出しに戻ってしまったためだと考えられる。

つまり、ストーリーの中で出会った他者から新しい情報を得て、自分自身への理解が増すことで新しいプリズムジャンプが飛べるし、飛べないのは当初からある自分の心に固執し、他者を拒絶して新しい情報を得られない、あるいは他者と出会う以前の状態に戻ってしまったことが原因となっている。第7話であいらが「お洋服が飛ばせてくれた」というように、他者や服といった自分ではコントロールできなかった予想外の刺激によって心は飛躍する。

私の夢、少しずつ変わってきてるみたいなの。前は夢って、どうせ叶わないんだって思ってた。将来はお家のケーキ屋さんを継ぐんだろうなって思ってた。でも、プリズムショーに出会って、りずむちゃんやみおんちゃん、ショウさんやプリティートップのみんなに出会えて、段々わかってきた気がする。最初はどんなことでもいいの。小さな夢とか目標を持って、それが頑張ってできた時に自信になる。そしたらその自信で、それよりももう少し大きな夢を持って、頑張ってみようと思える。そうすると、どんどんたくさん夢が増えてきて、まるで宝探しみたいにワクワクして、心の中が新しい宝物でいっぱいになる。毎日がきらきら輝いて見えるの。勿論楽しいことばっかりじゃなくて、辛いことも悲しいこともあったりするけど、それまでの手に入れた心の中の宝物が勇気になって、頑張らなきゃって思える。今日が駄目でもまた明日、明日が駄目でも明後日、きっと乗り越えられるって信じて頑張れる。私は今、私達のプリズムショーを見てくれる沢山の人達を笑顔にしたり、元気づけたい。それがたった今、この瞬間の私の夢。それを一所懸命やれば、きっとまた新しい夢が見えてくると思う。

プリティーリズム・オーロラドリーム 第36話

Q,ずばりオーロラドリームを一言で言うと

あいら的に言うと何だろう…出会いかなぁ、出会いの連続で本当に物語が進んでいった感じがするので、私としてっていうかあいらとして…はそうかなぁ

プリティーリズム・オーロラドリーム BDBOX 特典座談会CD 26:09-26:24

他者から新しい情報を得ることがプリズムジャンプを飛ぶための条件であるが、自分が考える「なりたい自分」の方が正しいというわけでもないし、他者から見た自分の方が正しいというわけでもない。「なりたい自分」とは静的ではなく動的なものであり、自分が考える「なりたい自分」も、他者の知識や他者から見た自分をフィードバックして形成されているし、他者と関わるたびに更新されていくものなのではないか。他者の振る舞いによって、他者への対応の仕方は変わってくるだろう。そして自分の対応が変われば、他者の振る舞いも変わる。その他者の振る舞いによって、また自分の対応も変わる。延々とループするやり取りの中で「なりたい自分」は作られているはずだ。

例えば、第2話であいらがりずむをコーディネートして、りずむがあいらにコーディネートされるシーンの場合、りずむがあいらにコーディネートされていることに注意を向けるなら、あいらから見たりずむにもりずむは注意を向けざるを得ず、りずむの考えるりずむには、あいらから見たりずむを含まざるを得ない。お互いに注意を向けた状態における自分の考える自分には、他者から見た自分を切り離すことはできないだろう。

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心の定義にもよるが、性格の遺伝的要因はだいたい5割程度で、残りの5割は環境(≠家庭環境)によって変わると言われている。オーロラドリームにおいても、各キャラクターは根の性格の部分は変わっていないし、第6話であいらの母親のおみがりずむに向かって「気の強いところもママにそっくり」という台詞や、第41話でケイが今日子に向かって「そういうところは父親に似たようね」という台詞もある。

しかし、何らかの先天的に変わらない不変的な特性があったとしても、それが不変的な特性だとわかるには、他者との出会いという可変の危機を乗り越える必要がある。様々な可変の危機を乗り越えた先に、それでも変わらなかった部分こそ不変の特性だとわかるのではないか。そしてこれこそが、第49話でケイが言った「人は本当に大切なものをどんなに捨てようとしても絶対に捨てることはできない」「あなたがオーロラの中で見たものは心の中で輝きを放つ最も大切なもの」に繋がるのではないか。

追記:プリズムジャンプに関してはこちらの記事でさらに掘り下げている。

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神崎そなたと阿世知今日子のオーロラライジングの意味

13年前にあったことを要約すると、神崎そなたは「家族と一緒にいるよりもプリズムショーを求めた」結果、一年間の家族との時間を失った。阿世知今日子は「プリズムショーよりも母親からの承認を求めた」結果、プリズムショーで高めあえる存在だったそなたを失った。

過去に果たせなかったことを現代のキャラクターが受け継いで果たすというよくあるテンプレに従えば、阿世知今日子と春音あいらの関係は、今日子が果たせなかったことをあいらが果たすとなるわけだが、13年前の今日子は「プリズムショーよりも母親からの承認を求めた」はずだ。しかし、あいらは父親の反対を押し切りプリズムスターになり、第33話ではプリズムショーのレッスンのためにうるとえると遊ぶ時間が以前よりも少なくなったり、第44話では母親の反対を押し切り挑んでいる。これは「家族と一緒にいるよりもプリズムショーを求めた」と言えないだろうか。つまり、あいらはむしろそなたと似たテーマがあるのではないか。今日子と似たテーマなのは、母親からの承認を求め、プリズムクイーンカップでプリズムショーを放棄し、母親のもとへと向かった天宮りずむなのではないか。

考えられるのは、今日子とそなたの行動は、13年前と現在では正反対になっている。13年前の今日子は、母親から認めてもらうためという独り善がりな動機で挑んでいたが、切磋琢磨してプリズムショーを発展させてきたライバルを失ったという後悔から、現在はプリズムスターの養成所であるプリティートップを設立し、プリズムスターの育成、安全なオーロラライジングを飛ぶ方法の確立といったプリズムショー界に貢献するような行動を取っている。13年前のそなたは、今日子と切磋琢磨するためというプリズムショー界に貢献するような動機で挑んでいたが、家族との一年間を失ったという後悔から、現在は埋没費用のためにオーロラライジングの完成を目指すという独り善がりな行動を取っている。

現在の今日子は、切磋琢磨してプリズムショーを発展させてきたライバルを失ったことの後悔から、プリズムショー界に貢献するような行動を取っているため、りずむのオーロラライジング・ファイナルという独り善がり的なジャンプでは、今日子の13年間に意味を出せない。今日子の後悔を解消するためには、春音あいらのオーロラライジング・ドリームという人々に貢献し、今日子の13年間の努力の延長線上にあるようなジャンプが必要だったのではないか。反対に、そなたの後悔を解消するためには、天宮りずむのオーロラライジング・ファイナルという家族と一緒にいられなかった13年間の出来事を伝えて、失った時間を埋め合わせるようなジャンプが必要だったのではないか。

13年前の今日子とそなたは、本人の適性と正反対の行動を取っていたと言える。プリズムショー界に貢献することこそが今日子にとっては適性があった。それなのに母親からの承認を求めるあまりプリズムショーから目を背けてしまった。高めあえるライバルだったそなたを利用してまで母親からの承認という特殊的な価値を求めたが、特殊的な価値を求めることには適性がなかったため、オーロラライジングを飛べなかった。そなたは家族と一緒にいることに適性があった。それなのにプリズムショーを求めるあまり家族から目を背けてしまった。家族を忘れてまでプリズムショー界に貢献という普遍的な価値を求めたが、特殊的な価値を求めることの方が適性があったため、オーロラには家族が映し出された。

13年前の今日子とそなたは、あいらとりずむと違ってなぜ適性に気づけなかったのかと考えれば、対決の日まで顔を合わせることがなかったためではないだろうか。つまり、他者との出会いがなかった。他者を遠ざけるのは、別の他者に適応しているだけの可能性があり、自分の適性とは言いきれない。一人の他者ではなく、複数の他者と出会うことで適性がわかる。第49話でケイが言った「人は本当に大切なものをどんなに捨てようとしても絶対に捨てることはできない」「あなたがオーロラの中で見たものは心の中で輝きを放つ最も大切なもの」とは、オーロラライジングに適応して、適応しきれなかった部分から自分の適性を見つけることでオーロラは輝くということだとすれば、他者から新しい情報を得ることがプリズムジャンプを飛ぶ条件であるように、他者との出会いがあればこの方法は必要なかった。だから第50話でケイは、他者との出会いによって紡ぎ出されたオーロラの輝きを見て、今日子を認めたのではないだろうか。

 

春音あいらと天宮りずむのオーロラライジングの意味

ここまで検討してきたことからわかったのは、阿世知今日子と春音あいらの描写は、家族からの承認という特殊的な価値よりも、プリズムショー界への貢献という普遍的な価値を求めることに適性があったという意味で繋がっている。神崎そなたと天宮りずむの描写は、プリズムショー界への貢献という普遍的な価値よりも、家族からの承認という特殊的な価値を求めることに適性があったという意味で繋がっている。今日子は普遍的な価値を求めることへの適性があったのに生かせなかったパターンで、あいらはその適性を生かせたパターン。そなたは特殊的な価値を求めることへの適性があったのに生かせなかったパターンで、りずむはその適性を生かせたパターン。

例えば、第40話からのプリズムクイーンカップに突入してから、りずむは第42話の大会前に1度、第43話の大会前と大会後で計2度、第44話で2度、計5度もヒビキと会っている。第44話では、練習をサボってヒビキに会いに行っている。それに対してあいらは、ずっと練習に集中し、第44話の大会前に初めてショウと会う。しかも自分から会いに行ったのではなく、ショウから訪ねてきたのである。りずむが練習をサボって何度もヒビキに会いに行く中、あいらはショウと一度も会わずに練習することを苦にしない。これは端的に二人の性質を表していると言える。私情を優先してプリズムショーに不誠実なりずむに対して、あいらは恋に執着せずにプリズムショーにひたむきになれる。

りずむはオーロラライジングを飛ぶために大切なものを捨てようとした結果、家族や恋の相手や仲間を捨てられなかった。オーロラライジング・ファイナルは、家族や恋の相手や仲間を映し出すものとなった。言いかえれば、家族や恋の相手や仲間以外は捨てられたということだ。だからプリズムクイーンカップではプリズムショーを放棄した。それに対してあいらのオーロラライジング・ドリームは、すべての人の夢を映し出すものとなった。言いかえれば、捨てられるものはなかったということだ。輝くためには、自分の身内といった特殊な関係だけではなく、すべての人が必要だったのである。

このような葛藤と考えると、みおんの描写の意味も見えてくる。プロ意識が高く、自分の都合を言い訳にしないクールなみおん様という顔と、仲間と出会って変わってしまった、クールになれないみおんちゃんという顔があり、その葛藤が描かれたわけだ。今日子&あいらやそなた&りずむでは二世代を使って描かれていたが、みおんはひとりの中で完結している。

例えば、アイドルと恋愛の葛藤の場合、アイドルを選ぶようなパターンがあっても、アイドルの魅力が描かれていないので説教臭くなったりする。あるいは、恋愛の山場を作るためだけで意味はないことも多い。義務的に選ぶのではなく、アイドルの魅力を描いた上で、積極的にアイドルを選ぶような作品は滅多になかった。大半の作品は単に葛藤それ自体を描きたいだけで、どのような魅力があるために葛藤するのかといった掘り下げはどうでもいいのである。プリティーリズム・オーロラドリームも過去のエピソードのみだと例に漏れずプリズムショーの魅力を描けていない。プリズムショーの魅力と恩恵を3クールかけて描いてきたことで、オーロラドリームは稀有な作品になったのである。言いかえれば、4クール目のみだと凡庸な作品にすぎない。

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