プリティー研究所

プリティーリズムの考察など

プリティーリズム・オーロラドリームの適切な評価と勝敗の意外性

勝敗の意外性とは何か

スポーツの試合観戦であったり、あるいはフィクションのキャラクター同士の勝負であったり、なぜ人はその勝敗によって喜んだり落ち込んだりできるのか。以前にも書いたが、恐らくそれは予測とエラーにあるのではないか。認知神経科学心の哲学では、人が知覚している世界とは、脳が予測した世界であるという説がある。視覚や聴覚などからの感覚信号と予測を比較して、エラーがあれば予測は更新される。その繰り返しによって予測のエラーは最小化され、外界をそれなりに適応的に予測できるようになる。予測の更新がなければ脳は何も感じない。

勝敗の結果というのは、予測の更新なわけだ。結果が出る前にいくら勝敗を予測しても、結果として勝敗を確認するまでは確信を持てず、勝敗の可能性はどちらも残されている。どれだけ力の差がある者同士でも、結果を確認することで不確かさは確認する前と比較して減るだろう。だからその結果によって感動できる。そして大番狂わせのように、予測とかけ離れた結果ほど多くの情報が得られるため、より感動も強くなるのだろう。

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予測できないならエラーも更新もないので、勝敗を予測できるだけの知識がなければ、その結果によって喜んだり落ち込んだりもできないのではないか。問題を問題として認識できるだけの知識がなければ、答えを確認するための行動は起きず、そこに正解も間違いもないからだ。例えば、何も知らない競技の試合を観戦する場合、どういう意義があるのかわからないため、どちらが勝っても負けてもどうでもいいと思い、結果にも関心を持てないだろう。勝敗を予測するには、ある程度ルールを知っていたり、両者の実力を知っていたり、あるいは片方に肩入れをしている必要がある。

要するに、意外性を感じられるほどに感動できるし、意外性を感じられるだけの既存の知識がなければ感動もできない。意外性を感じられるか否かは、受け手によって左右されてしまう。受け手に知識がなかったり、雑に鑑賞していたりすると、意外性を感じられない。そうであるなら、個人の感想としては兎も角として、それのみでは作品単体の評価としては適切ではなくなってしまう。なので、作品単体の評価としては、個人が意外性を感じたか否かではなく、意外性を感じさせようとする工夫がなされていたか否かで評価するべきではないだろうか。

既存の知識がなくても、ある程度反復している内に知識が身に付き、予測が可能になったり、予測が変化する。例えば「首を切断された人間が死なない」という情報を提示されたとしよう。現実の一般常識や医学からするとエラーであり、既存の知識においては意外性を感じられる。しかし、事前に「この作品世界の人間にとっては生きる上で首は重要ではない」という描写が何度もあったとする。そうすると、作品内部ではそのような規則があることを学習し、その後に「首を切断された人間が死なない」という情報を提示されても、「この作品世界では当たり前なのだろう」と思い、意外性は既存の知識にのみ依存した場合よりもなくなってしまう。これを逆手にとれば、「首を切断された人間が死ぬ」という既存の知識においては意外性を感じられない情報に、作品内の描写によって意外性を感じさせることもできるのではないか。

意外性を出す工夫の例

小山ゆうのあずみを例にしよう。この作品は、主人公のあずみが戦闘において最強なのだが、あずみの圧倒的強さは初期から設定されているし、この作品において敗北はほぼ死ぬことを意味するため、読者は主人公だから(死んだら作品が続かないから)負けるはずがないと既存の知識においては予想するはずだ。しかし、あずみは華奢で若い少女という現実の一般的には弱い属性を持っており、反対に敵は現実の一般的には強い属性である筋骨隆々の男だったり、複数人だったり、あずみの強かった仲間を殺していたり、「小娘が一人で勝てるわけがない」といった周囲の登場人物からの評価など、戦闘が始まる前の段階では、ひたすらあずみが不利なことを強調している。既存の知識では負けるはずがないと予想していても、もしかしたら負けるかもしれないと錯覚させるような描写が行われている。

ところが、いざ戦闘が始まると、ほぼ苦戦することなく、圧倒的な強さで敵を瞬殺する。呆気にとられる周囲、敵も始まる前はあずみを見くびっていたのに、焦り出したり、真剣な表情になったりと、戦闘前と後で評価がガラリと変わる。このように、主人公が勝つと読者はわかっていても、予想を脅かすような描写によって意外性のある勝利展開を演出することはできる。こういう作品が勝敗の意外性という点において工夫された作品である。

主人公が無双する作品を俺TUEEEとも言うが、むしろ主人公を「俺」としてシミュレーションしすぎると意外性は感じられなくなるのではないか。例えばホラー映画では、怪物の情報が受け手には与えられず(怪物がどこにいるのかわからない)、怪物に襲われる側の視点で進み、突然目の前に怪物が現れて殺されるというのが定番だが、主人公が無双するコマンドーやレオン、ジョンウィックといった作品でも、戦闘になると主人公の情報が受け手には与えられず(主人公がどこにいるのかわからない)、倒される敵の視点で進み、突然目の前に主人公が現れて敵を殺すというのが定番である。

異世界転生して主人公が無双する作品の定番として、主人公は弱い職業、弱いスキル、弱いステータスといった異世界の常識において支配的な指標では最低ランクだが、実は知られていないだけで最強の職業だったとか最強のスキルだったという設定が多い。そして支配的な指標ではエリートの相手を余裕で倒す展開がある。この時、戦闘が始まる前に主人公が相手を見下すような内面が描かれると、主人公の方が強いことがわかって予定調和になってしまう。主人公の内面を描くなら、主人公自身も含めて全員が主人公の勝利を確信できないくらい強敵を出すか、卑屈にすればいいが、それでは主人公が無双する作品にはならない。なので、主人公が無双する作品なら、戦闘関係においては主人公の内面よりも、主人公の強さを隠すために、主人公の強さを知らない第三者や相手の視点に注力する方が、意外性を出すためには重要なのではないか。

実験の参加者が、自分の正しい答えを捨て去り他人の間違えた答えを採用したのは、グループが全員一致で誤回答を支持したときだった。しかし誰か一人でも正しい答えを出していれば、参加者は最初の考えを曲げなかった。つまり、集団の中にあっても、たった一つの異なる意見が存在すれば、他人に自主的な行動を取らせることができたのだ。

ターリ・シャーロット『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』207

つまり、受け手が勝敗をほぼほぼわかっているとしても、登場人物の全員が誤った予想をすることで、受け手も誤った方向に導かれ、意外性を出すことができる。結果に意外性を出すために重要なのは、勝利か敗北かという結果よりも、事前の描写なのだ。例えば、主人公が優勝しないような作品があっても、事前の工夫なしに主人公を負けさせただけでは、その結果に意外性を感じられたとしても、それは作品内部の工夫から生じているのではなく、他の作品の展開にフリーライドした二次創作のようなものでしかない。それに主人公が優勝しないなんてアニメや漫画全体から見れば珍しくもない展開である。ポケットモンスターのアニメにおいて主人公のサトシが20年以上優勝しなかったことは有名である。あるいは、スラムダンクやMAJORといった有名タイトルでも、主人公チームは優勝していない。スポーツ漫画において、因縁がある相手との対戦を消化しきってしまえば、優勝せずに途中で敗退するのは珍しくもない。むしろ、主人公や主人公チームが優勝する作品の方が少ない可能性もある。要するに、工夫もなく主人公を敗北させただけで意外性を感じるのは、貧弱な知識しか持たない受け手だけなので、事前の工夫が必須である。

結果が勝利の場合は、事前に敗北を匂わせるような描写を行うことが意外性を感じさせるための工夫と言える。結果が敗北の場合は、事前に勝利を匂わせるような描写を行うことが意外性を感じさせるための工夫と言える。先に述べたように、受け手が雑に鑑賞していたり、作品内部から得られる情報だけではなく、各々の既存の知識も含めて予想するので、いくら作品内部で工夫しても誰もが意外性を感じられるとは限らない。しかし、このような工夫の有無が作品単体を評価する上では適切である。

もちろん、現在の社会状況や文化全体に目を向け、今を生きる人々にとって何がお約束なのか、何が意外なのかを考えて作品に反映させることも工夫と言える。しかし、工夫の有無が作品内部からでは区別できない。もちろん、どのような作品であっても、外部の知識が必要ないという作品は存在しない。しかし、できる限り誰にとっても意外性を感じさせる工夫に目を向けたい。これはできる限り作品単体を評価する上で適切であるだけで、他の作品なども含めた全体における評価はまた別である。作品内部から意外性を感じさせる工夫は作品単体としては評価に値するが、作品内部に工夫があったとしても、社会全体からすれば意外性がない陳腐なことはある。

問題点

問題としては、かなり長期の作品となると、マンネリ化してパターンが読めてしまうのだ。「負けるかもしれないと思わせてからどうせ勝つのだろう」と予想できてしまうと、意外性は感じられなくなる。ある時点で計測した条件を基に行動を予測しても、その予測を基に行動すると、予測した時点にはなかったその行動によって予測通りには行かなくなる。意外性を感じさせるための工夫(作り手の予想)をしても、それを受け手に感づかれると、作り手の予想した意外性は感じられなくなってしまうだろう。「この戦いが終わったら恋人と結婚するんだ」といった希望を語ることがもはや死亡する結果を予想させてしまうように、結果と逆方向の描写自体がフラグと化すことがある。ただし、他の作品のパターンからこのように予想するのは、既存の知識からの予想になるので、作品単体の評価としては関係がない。作品単体として巧くないと言える場合は、同じ作品内で繰り返し行った場合に限定される。

「この戦いが終わったら恋人と結婚するんだ」の後に死ぬ作品は、作品内部の工夫と言えるので、ありきたりだが作品単体としては評価に値する。仮にこの台詞の後に死なないという作品があったとしよう。これは「受け手が予想すること(戦いが終わって結婚する)を作り手が予想すること(希望が叶わないことで意外性を感じさせる)を受け手が予想すること(どうせ死亡フラグ)を作り手が予想した(死亡フラグだと思った?残念でした)」のだが、こちらは作品単体としては評価に値しない。なぜなら、受け手の既存の知識に頼り、作品の内部で意外性を感じさせる工夫をしていないからだ。最初から意外性が何もないパターンの「受け手が予想すること(戦いが終わって結婚する)を作り手が予想しない(戦いが終わって結婚する)」と区別がつかない。死なないなら、同じ作品内で最初にこの台詞を言った者は死んで、二度目にこの台詞を言った者は死ななかったといった場合に限り、作品内部の工夫と言える。

他には、勝敗に意外性を出すために逆方向の描写を行いすぎると、結果が納得できないものになってしまう危険性もある。勝つ方にケガをさせたり病気を患わせるといった不利な状況に陥らせるパターンがあるが、ケガや病気なのに降って湧いた精神力だけで勝利してしまうと、結果に意外性を感じられても、納得することはできないだろう。あるいは、圧倒的な実力差があると印象付けていたのに弱い方が勝つ場合にも、意外性よりも納得できなさを感じてしまうのではないだろうか。もし圧倒的強さを見せつけた敵が闘わずに突然死んだりしたら、意外だとしても面白くもなんともないだろう。それが4コマ漫画だったり、1話や2話、開始数分なら「意外性を狙ったギャグ作品」だと思って納得できるが、時間をかけて強大さや因縁ある相手として描かれてきた敵が闘わずにあっさり死んだら、肩透かしを食らうだろう。ルールに則っていなければ、勝敗を予想すること自体が無意味であり、作品内部の規則を学習した時間が無駄になるからだ。

これは「作品にとって説明はどの程度必要なのか」に通じる。作品批判の定番として「説明不足だ」というような批判がある。しかし、同時に「説明しすぎだ」というような批判もある。人それぞれの好みの問題の場合もあるとは思うが、この批判が適切か否かは、どの時点かによるのではないだろうか。序盤は作品内部の規則を学習する。基礎を固める段階で、この時には説明があっても邪魔にはならない。むしろ、自力のみだと誤解する可能性もあるので、この期間に説明がない場合は「説明不足だ」という批判は適切に思える。

しかし、終盤は学習した作品内部の規則を応用して自力で解きたい。その時に説明されると、過保護すぎて鬱陶しいし、クライマックスの勢いが削がれて邪魔に感じる。それに終盤で説明するような作品は、大抵それまでの作品内部の規則になかった解き方を説明して、それまでが描写不足の怠慢であったことを誤魔化すためという傾向があるからではないか。つまり、序盤は作品内部の規則を学習する段階なので、ある程度は何をやっても納得できるが、終盤はそれまでの作品内部の規則から導ける結果でなければ納得できない。しかし、そうすると意外性を出すための逆方向の描写ができなくなる。

ドラゴンボール鬼滅の刃の戦闘の工夫

これを防ぐための方法は二つ思い浮かぶ。一つは、結果の後にそうなった理由の説明を入れる。過去を回想したり、隠された設定が実はあったと描写する。ただ、これは上述したが、勢いが削がれたり、納得できない場合がある。もう一つは、事前に結果と逆方向の描写を行うミスリード的伏線と同時に、結果に繋がるような伏線も張る。こちらの方が有効なのではないか。例えば、ドラゴンボールのナメック星編では、敵のフリーザの圧倒的強さを印象付け、勝てるはずがないと思わせつつも、事前にスーパーサイヤ人というワードを散りばめておいたり、敵のフリーザもそれを脅威に感じていること、主人公の悟空がそれになれるかもしれないことを描写しておくことで、スーパーサイヤ人に覚醒して勝利することに納得できるようになっている。

さらに言えば、勝利に繋がる描写と敗北に繋がる描写が拮抗するほどに勝負は盛り上がるのではないか。ドラゴンボールフリーザとの戦闘を例にすると

  1. 戦闘力53万(負けそう)
  2. ベジータと力を合わせれば勝てるかもしれない(勝ちそう)
  3. フリーザが変身してパワーアップした姿が想像以上(負けそう)
  4. パワーアップしたピッコロが駆けつける(勝ちそう)
  5. フリーザがさらに変身してパワーアップ(負けそう)
  6. 悟空が回復して駆けつける(勝ちそう)
  7. 界王拳を使った悟空ですらも実力差がある(負けそう)
  8. 元気玉を使う(勝ちそう)
  9. 元気玉でも倒せなかった(負けそう)
  10. スーパーサイヤ人に覚醒して勝利

他にも鬼滅の刃における上弦の陸との戦闘を例にすると

  1. 上弦は炭次郎にとって格上(負けそう)
  2. ヒノカミ神楽ならそれなりに戦える(勝ちそう)
  3. 敵の分裂していた体が一つに戻ってパワーアップ(負けそう)
  4. 炭次郎が怒りでパワーアップ(勝ちそう)
  5. 炭次郎の体に限界が来る(負けそう)
  6. 禰󠄀豆子が戦って圧倒する(勝ちそう)
  7. 禰󠄀豆子が人を襲いそうになったので制止する(負けそう)
  8. 柱の宇髄が駆けつけて敵の首を切り落とす(勝ちそう)
  9. 実は上弦の陸は二体いて宇髄は毒に侵される(負けそう)
  10. 仲間が駆けつける(勝ちそう)
  11. 仲間は全員死んだ(負けそう)
  12. 実は仲間は全員生きていて力を合わせて勝利

これらのように、勝利を匂わせる描写と敗北を匂わせる描写を交互に繰り返すシーソーゲームによって常に予想を更新させれば、意外性も出せるし、納得できるようにもなる。先に述べたマンネリ化の危険もあるので、一戦においての逆転の回数を減らしたり、逆転方法に変化をつける必要はある。

勝敗以外が決着の場合

結果に納得できる描写と、結果と逆方向の描写を行うのは、どちらかの勝敗ではない結果に落ち着く場合にも言える。水樹和佳子イティハーサ岩明均寄生獣を例にしよう。イティハーサという作品は、主人公の鷹野はある日川で赤子を拾い、村に連れ帰る。その赤子は透祜と名付けられ、鷹野は自分の妹として育てることを決める。この世界には、平和を好む亜神という神々と、破壊を好む威神という神々が存在し、村を威神の一派によって滅ぼされた鷹野は、亜神の一派のもとに身を寄せ、威神を滅ぼすために強くなろうとする。鷹野のもとで穏やかに育った透祜は、威神のもとで殺戮を繰り返しながら育った夭祜という双子がいることを知る。二人は双子であったが、夭祜が透祜を殺してしまい、透祜の魂が夭祜の身体に留まり二人は一体化する。それによって生き物を殺めることに快楽を感じる自分に思い悩むことになる。その内面の葛藤と同時進行的に、外界でも亜神と威神の争いが描かれる。

序盤は「亜神は平安によって人々に幸福をもたらす」「威神は破壊によって人々に不幸をもたらす」と印象付けていたのが、途中から亜神のもとでは幸福になれない者がいるという展開になっていく。亜神の一神である普善神の天音が統べる里では、祈りを捧げることで人々は悲しい過去の記憶は消され、争いも病も飢えもない永遠の平安が保証されている。しかし、そこでは新たなことを「知る」必要がないため、人々の歩みを止めてしまう。透祜は最終的に亜神が支配する世も、威神が支配する世も選ばないことを選ぶ。そして鷹野は透祜を救うために亜神の天音を殺してしまう。平安も破壊の快楽も退け、一つの答えを出さずに反調和を続けることこそが答えだったわけだ。

これは争いの勝敗によって答えを出すのではなく、争うこと自体が答えだったというパターンである。善と悪の争いの話であると印象付け、どちらかの勝敗で終わるはずと思わせていたことで、どちらも選ばないことを選ぶという展開に意外性が出ている。それと同時に、威神のもとで育ったが、そこから逃げ出して亜神のもとに身を寄せるも、そこでも平安を得ることはできず、再度威神のもとに戻ったキャラクターがいたり、一つの答えを出さないという結果に繋がる伏線は別に張っているのだ。

寄生獣という作品は、主人公の泉新一は普通の人間だったが、ある日右手をパラサイトという謎の生物に寄生される。パラサイトに頭部を寄生された他の人間は、冷酷無比な人食いになってしまうのだが、泉新一も右手をパラサイトに寄生されてから様々な体験を経て、涙を流せなくなったり、以前とは変わってしまったことで、自分もパラサイトに脳まで寄生されてしまったのではないかと思い悩む。その内面の葛藤と同時進行的に、外界でも人間とパラサイトの種の争いが描かれる。

序盤は「パラサイトは感情に乏しいから強い」「人間は余計な感情があって弱い」と印象付けていたのが、途中から「人間は個性を殺して共同できるから強い」「パラサイトは余計な個性があってまとまれないから弱い」と力関係が逆転していく。それと共に泉新一もパラサイトが混じったから涙を流せなくなったのではなく、悲しみから逃避するために感情を押し殺していただけだったとも取れる展開になっていく。そして最終話、「人間は人間を殺す」「パラサイトは人間を助ける」という構図になり、殺人衝動の有無や情の有無という種の特徴だと思っていたものでは答えを出せなくなる。人間を助けるパラサイトもいるし、人間を殺す人間もいる。かくして泉新一は人間なのかパラサイトなのかの答えは、ヒロインの「きみが泉新一くんだから」「3人だって」「一緒にされちゃった」という台詞が象徴するように、泉新一は人間でもパラサイトでもなく、泉新一だったのである。これによって種ではなく個体の話であったことがわかるわけだ。

これは争い自体がミスリードだったというパターンである。人間とパラサイトの種の争いの話であると印象付け、個体の話だということを隠していたことで、最終話の台詞が際立ち、感動に繋がっている。それと同時に、ヒロインが序盤から事ある毎に「きみ……泉新一くん…………だよね?」と問いかける描写がある。このように個体の話であるという結果に繋がる伏線は別に張っているのだ。どちらかの勝敗以外の第三の答えを出す場合にしても、結果に納得できるような伏線は張りつつ、結果に意外性を出すための逆方向の描写も行うことが工夫と言える。

 

プリティーリズム・オーロラドリームの適切な評価

勝敗の結果に意外性を出すために重要なのは、結果それ自体よりも、結果以前の描写である。勝利するキャラクターは、勝利することを隠すために、敗北が確定したかのような不利な状況に置いたり、前評判の低さを強調することなど、勝利することを信じさせない描写が意外性を出すための工夫である。敗北するキャラクターは、敗北することを隠すために、勝利が確定したかのような有利な状況に置いたり、前評判の高さを強調することなど、敗北することを信じさせない描写が意外性を出すための工夫である。この勝敗の意外性の工夫という点において、プリティーリズム・オーロラドリームを適切に評価したい。

第49話と第50話で行われるプリズムクイーンカップという大会がある。この大会において、久里須かなめ、天宮りずむ、高峰みおん、春音あいらの4人が競い合う。その結果、優勝するのは春音あいらなのだが、大会が始まった第49話では、解説者が前評判としてオーロラライジングという凄いジャンプをすでに飛んでいる天宮りずむ、久里須かなめを優勝候補に挙げる。また海外の大会で優勝して実績のある高峰みおんの名前も挙げられる。しかし、優勝する春音あいらの名前は一切挙げられていない。優勝するキャラクターを巧妙に隠す工夫がなされているのだ。

さらに第50話では、春音あいらの順番の前に、高峰みおんがカンスト得点の10000caratを出してしまう。常識的に考えれば、カンスト以上はないのだから、絶対に春音あいらが勝つはずがないという状況を作り出している。このようにオーロラドリームは、意外性のある展開を演出することに成功している。それと同時に、春音あいらは作品上唯一と言っていいほど他人のためにプリズムショーを行っているといった結果に繋がる描写もされている。あいらがプリズムショーを通して人々に夢を与え、それを受けてプリズムショーを見ている人々はあいらを応援し、それを受けてあいらは夢を得て、また人々に夢を与えるというループがあるのだ。

結果の意義

結果に意外性を出すにしても納得させるにしても、重要なのは結果それ自体ではなく、結果以前の描写である。さらに言えば、結果に意義を出すために重要なのも、結果それ自体ではなく、結果以後の描写なのではないだろうか。例えば、敗北や失敗に意義があるとすれば、敗北や失敗それ自体に意義があるわけではなく、敗北や失敗のリスクを減らせる情報が見つかるからであり、その情報を実際に機能させた描写があってこそ意義が出る。

例えば、オーロラドリームでは第21話で敗北が描かれるが、この敗北から得た情報を機能させた描写がある。あいらは不得意なダンスのレッスンに序盤は乗り気ではなかったが、第21話のデュオ大会で敗北して以降、敗因は自分のダンスが下手なせいで、相方のりずむが自分に合わせてダンスのレベルを下げざるを得なかったせいだと悔やんでからは、第21話以前の第7話、第10話、第18話などのレッスンシーンと比較して、第22話、第25話などのレッスンシーンでは、途中で投げ出さずにダンスレッスンに励むようになっている。第33話ではうるとえるの誕生日でもレッスンを休めないというあいらに対して、りずむとみおんが休もうと提案したり、第36話ではりずむとみおんが帰る中、あいらは一人残って練習しようとしているといったように、人一倍ダンスの練習に励むようにまでなっている。その成果として、第35話以降のプリズムショーシーンでは、できなかったステップができるようになったといった機能した描写がある。

あるいは、第7話であいらはりずむから非難された時、泣いて逃げ帰るのだが、第46話では同じようにりずむから罵声を浴びせられても、あいらは対決することを選んでいる。これは第21話での敗北を経たからこそ、逃げたり妥協して迎合した場合のリスクを知っているため、ぶつかりあうことを選んでいるとも取れる。これによってりずむは闇落ちから助かっている。これらのような敗北の後に何らかの行動が変わり、その行動が何らかの役に立ったという描写があることで、あの敗北には意義があったと思える結果に意外性や納得を出すために重要なのは、結果だけではなく結果以前の描写であるし、結果に意義を出すために重要なのも、結果だけではなく結果以後の描写なのである。要するに、結果から得られる作用の大部分は、前後の描写に支えられている。

敗者の問題点

これは敗北の後の埋め合わせの描写があることで「意義があったと合理化できる敗北」という物語として成立しているだけであり、「敗北には意義がある」と一般化しているわけではない。敗北の後に何らかの良い結果に繋がったからと言って、それは物語による敗北の埋め合わせであり、敗北それ自体に良い結果に繋がる要素があるわけではないのだ。反対に、例えばプリティーリズム・レインボーライブのように、敗北の後の埋め合わせの描写もないのに敗者を美化するような作品は、敗北には問題がないと錯覚させる危険性がある。現実では敗北や失敗には多かれ少なかれ損失が生じる。リスクがない競争は暴走しうるので、勝敗の結果には格差があって然るべきだが、敗北や失敗による損失は同じだとしても、元々豊かな者と貧しい者とでは違うだろう。前者には再度挑戦する余力があっても、後者にはないかもしれない。そうなると敗北や失敗から得た情報を機能させることができるのは、一部の者に限られてしまう。

敗北しても埋め合わせを必要としない当事者は、すでに十分な厚生を得ていたり、あるいは諦めた人間であり、そういう個体を当事者の代表だと認識して一般化すると、問題が見落とされてしまう。オリンピックで金メダルを取れなかった選手と出場すらできない身体が弱い人は同じではないように、当事者の中にも格差があり、敗者の中の強者が、敗者の中の弱者を抑圧する可能性がある。この当事者内の格差を無視して、挫けない心があれば敗北や失敗は問題がないといった個々人の精神力の問題にすり替えると、問題が見落とされてしまう。

自分の欲のために競争してリスクを取ったなら、その結果敗北して被った損失は本人が責任を取らなければならないが、競争が推奨されていたり、競争から降りる選択が不可能なら、敗北の責任をすべて本人に負わせるのはフェアとは言えないだろう。勝利を期待して競争に臨むのではなく、競争する前から敗北が決まっているのに、競争せざるを得ずに競争する場合もある。競争を推奨する作品世界で埋め合わせもなく敗者を美化するのは、弱者からの搾取と格差の是認の意味しかない。

そもそも競争とは、より良いものを探求するために行うことである。確かに不毛な競争や過度な競争というものはある。そのような競争における勝利は、より良いものではなく、足の引っ張り合いによって得たものだったり、目先の利益のための一時しのぎの適応でしかなかったりする。本当に優れているものが時代や環境によっては敗北することもあるだろう。だが、それはプレイヤーの問題ではなく、わきまえない行動が効率的になってしまうことを防ぐための制限をかけないルールの問題である。それに敗者に価値があるというのは、現状のルールの改定に繋がるどころか、現状が温存されるだけだ。敗者には勝者以上の価値があるなら、敗者への埋め合わせも必要ないということで、敗者の中の弱者を放置することになりかねない。レインボーライブは、現状の採点における勝敗に重きを置かないのに、現状のルールの改定を求めたり競争から降りることはせず、意義を出せていない競争をそのまま続けるのである。敗者に光を当てるどころか、敗者の格差を温存しているだけなのだ。

他の者が諦めて低い水準で満足する中で一人だけ贅沢しようとしても、他の者からの協力が得られないため不可能なように、競争に参加する者が減れば、全体も痩せ細っていく一方であり、敗北や失敗した者が二度と挑戦する機会を得られないのは、勝者にとっても不利益の方が大きい。なので、敗者にも再度挑戦できる機会を与えることが望ましいが、それは敗者にも価値があると捏造するようなことではない。敗者が再度挑戦できるように技能育成したり、あるいは失敗のリスクを軽減させる方法など、実践的に機能させる埋め合わせが必要なのであり、口先だけの気休めではない。敗者にも光を当てる価値観があるとすれば、敗者に価値があるという価値観ではなく、敗者にもチャンスを与えようという価値観であり、敗者の自発性だけに任せた綺麗事には何の価値もない。

敗者とオーロラライジングドリーム

プリティーリズム・オーロラドリームは、オーロラライジングを飛べずに敗北した阿世知今日子は、技能が不足した状態での挑戦を控えさせようとしたり、危険ではない方法を確立しようとしている。そして阿世知今日子によってプリズムショーを始めさせられた春音あいらが、その方法によって飛んだオーロラライジングドリームは、夢破れた阿世知今日子や神崎そなたといった大人たちや、すでに敗北しているせれなやかのんやかなめなどの敗者たちも含めて、再度挑戦する意欲を持たせる夢の翼を発現させている。現にオーロラライジングドリームの後、第50話で神崎そなたは「まだまだ負けてられないわ」と呟いたり、第51話で阿世知今日子は新たな夢を語っている。過去から引きずっていた敗北に意義を出せた瞬間である。それでいて一人では再起できなかった弱さも描くことに成功している。

オーロラライジングドリームは、まだ舞台に上がることができない子どもだちにも、一歩踏み出す意欲を持たせる夢の翼を発現させている。これらは敗者や弱者の現状を肯定しているわけではないだろう。敗者や弱者の可能性を肯定しているのだ。敗者や弱者をそのままでいいと肯定するのは、むしろ搾取することになりかねない。かと言って自発性だけに任せて敗者や弱者を見捨てるわけでもない。

気が弱かった春音あいらがプリズムスターとして期待され、成長して輝けるようになったのは、これまでの競争の過程で出会った人たちのおかげである。それらの人たちは、現状は勝者ではないかもしれない。だが、その人たちとの競争の過程がなければ、春音あいらというキャラクターは輝けなかったのである。第22話にあるように、サマークイーンカップでせれのんに敗北しても、これからに期待してくれる人がいたから挫けずに再度挑戦できたのだ。だからこそ、現状の敗者や弱者にも、再度競争の舞台に上がるための翼を発現させる意義がある。もしかしたら現状の敗者や弱者が持っているかもしれない輝きによってもっと輝けるようになるかもしれないと期待に値する過程がある。現状を認識しつつ現状を肯定はしないで、これまでの過程とこれからの可能性を肯定しているのがオーロラライジングドリームなのである。

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自律的なキャラクターと物語の関係性

オーロラドリームの各キャラクターのソロ曲は、各キャラクターらしさがないわけではないが、ショートバージョンしか作られていない曲を含めて、どの曲のメロディも歌詞もアニメの主題歌として使っても違和感がない。聴いていると勇気づけられるような普遍性のある応援歌なのである。どの曲も普遍性があるため、キャラクター同士で方向性が競合しているように感じられ、プリズムショーの試合は、あたかも誰のソロ曲がこのアニメの主題歌に相応しいのかという一つの椅子の奪い合いに思えてくる。

特徴的な曲になりすぎると、キャラクター同士で方向性が被らないから競合感がなく、成長に繋がるような競争にならないのだ。それに特徴的すぎればキャラクターの役割も固定化し、キャラクターの持つ可能性が狭まってしまう。わかりやすい特徴というのは、他に持っているかもしれない才能を殺しうる。オーロラドリームはソロ曲が普遍的な応援歌であることで、一人のキャラクターが一つの特徴に囚われず、様々な成長の可能性を想像させてくれる。それでいて終わってみれば物語とリンクし、各キャラクターに相応しい曲にもなっている。

自律的なキャラクターとは何か

思うに「最初から決められている特徴や気持ち」といったものだけでは、自律的とは言えないのではないか。物語に囚われないキャラクターに対して自律的と言われることもあるが、ここで言う自律的とはそういう意味ではない。では、ここで言う自律的なキャラクターとは何か。例えば、オーロラドリームの第7話で、春音あいらは天宮りずむから非難され、泣いて逃げ帰ってしまう。この時点においては、あいらの気が弱いという特徴のキャラクターでは、泣いて逃げ帰るという行動しか取れず、その行動は選んで決めたわけではないため、自律的とは言えない。しかし、その後に成長して、第46話では第7話と同じようにりずむから罵声を浴びせられた時、あいらは対決するという行動を取っている。第7話で泣いて逃げ帰るという行動を取ったのだから、その選択肢もあるはずが、対決するという以前とは異なる行動を取ることで、対決の方が利があるからリスクを承知した上で選んでいるように思える。つまり、異なる選択肢が示されることで、キャラクターは自律的になる。

異なる選択肢が示されることであって、必ず異なる選択肢を選ばなければならないわけではない。異なる選択肢も選べる状態なら、同じ選択肢を選び続ける場合でも自律的と言える。例えば、同じくオーロラドリーム第7話で、あいらはプリズムショーをやめてもいいと言われる。あいらは最初から決められている気持ちどころか、物語内で指示されてプリズムショーを始めさせられたのだが、第5話でプリズムショーをやりたいことを父親に伝えたとはいえ、やらないという選択肢が示されなかった。しかし、第7話でプリズムショーをやらなくていいという選択肢も示されたことで、それ以降プリズムショーをやることは、リスクを承知した上で自律的に選んでいると言える。

異なる選択肢が示されても、所詮は物語の都合で動かされていると言えばそうなのだが、現実の人間だって所詮は遺伝子や環境の都合で動かされているだけである。しかし、「最初から決められている特徴や気持ち」に動かされている場合と、「複数の異なる特徴や気持ち」の中から選べる状態で動かされている場合とでは、どちらがより本人の選択として正確かと言えば、後者であろう。貧乏でも幸せだと思う人間がいるかもしれないが、金持ちの状態も知った上で比較しなければ、幸せだという判断は早すぎる決め付けかもしれない。

さながら、恋愛を知らないのではなく、恋愛ソングを歌い、恋愛の魅力を知っていると思わせながらも、恋愛をしないアイドル。恋愛を知らないために選択肢自体がない無知ではなく、恋愛をしないという約束を守らない無恥でもなく、選べるのにファンのために自分の意思であえて恋愛を選ばない。そういう錯覚をさせるようなキャラクターこそが自律的なキャラクターである。

キャラクターとは何か

では、キャラクターとは何か。例えば「特定の人物が走るとコケる」という描写があったとしよう。そのような描写が何度か続くことで、その人物が走っていない状態でも、走ったらまたコケるだろうと予想するようになるだろう。他の人物ならそうはならないと予想できる場合、その人物には「運動音痴」とか「ドジ」という特徴があると推定するだろう。そして「走ったらコケる→運動音痴→運動音痴なら苦手そうなこと→縄跳びも苦手そう」という連想で、その人物が縄跳びをしている描写がなくても、その人物は縄跳びをしても2回くらいで足に縄が絡まってコケるに違いないと予想できるだろう。

事態に遭遇した人物の振る舞いが蓄積されることで、その人物の特徴を推定し、まだ何らかの事態が起こっていない段階でも、もしもこういう事態が起こったら、こういう特徴の持ち主はこういう振る舞いをする傾向があるので、きっと特定の人物もこういう振る舞いをするに違いないと予想するようになる。キャラクターとは、このような「仮想の事態において、あの人物はこういう振る舞いをするはずだ」と予想できることなのではないだろうか。実際にその事態が描写され、予想が外れると「キャラクター崩壊」「〇〇はそんなこと言わない」というような批判対象になると同時に、キャラクターの成長=予想の更新にもなる。

作品内部の情報から学習することで「仮想の事態において、あの人物はこういう振る舞いをするはずだ」と予想するが、作品内部からの情報がほとんどない段階でも、既存の知識から予想することもある。一般常識であったり、他の作品のデザインが似ている人物や、共通する部分がある現実の人物をもとに予想することもあるだろう。あるいは、自分自身が事態に遭遇したことを想像し、「自分はこうするから、あの人物もこうするはずだ」とシミュレーションして予想することもあるだろう。

現実でもよく知らない人物の場合は、容姿・職業・性別・文化・人種・民族・信仰・思想・性癖・健康(障害)・年齢・婚姻状況などの情報から既存のステレオタイプの予想をするはずだ。それは虚構の登場人物でも同じことで、登場シーンが限られていたり、一枚絵や設定だけしか情報がなかったりする場合は、このように外部の情報を用いてキャラクター化される。キャラクター化することで、その人物は得体のしれない未知の存在から、予想が可能な安心できる存在になる。そしてキャラクター化された本人(あるいは作り手)も、そのキャラクターを利用することによって何を望まれているのかという相手の予想を予想し、スムーズなコミュニケーションが可能となるのだろう。

キャラクターは特定の人物に対して使われることもあるが、「クールキャラクター」や「ツンデレキャラクター」など、共通した特徴を持った複数の人物に対して使われることもある。一人の人物が一つの特殊なキャラクターを持つというよりも、一人の人物が複数のキャラクターを持つため、従来のキャラクターで説明できる部分と説明できない部分の独自の組み合わせが生じ、一人のキャラクターになるのだ。そしてその一人のキャラクターの振る舞いから従来のキャラクターが更新されることもある。

物語と社会制度

キャラクターを考える上で重要なのは物語である。物語というのは、何らかの事態に遭遇した人物(擬人化された物)の顛末であり、例えば「天変地異が起きて人類は絶滅した」という物語などの場合、登場人物は名無しの群衆のみでも可能あり、キャラクター(仮想の事態における特定の人物の振る舞いの予想)はなくとも物語は成立する。キャラクターは副産物であり、人物の振る舞いに何らかの規則性があることで、出生地の物語だけではなく、二次創作などの他の物語でも生きていけるようになる。

この記事内では「人物の振る舞い」と「キャラクター」と「物語」を分けている。これは順に「機能」と「貨幣」と「国家」の関係のようなものだ。例えば、物語内においてはクールで笑顔を見せたことがない人物が、キャラクターグッズや一枚絵などで笑顔の姿が描かれている場合、物語はないにもかかわらず、振る舞いを伝える機能はあり、キャラクターは更新される。キャラクターに必要なのは人物の振る舞いであり、物語は必要とは限らない。

ハスランガーによると、社会的制度の分析は、私たちに三つの要素に注意を払うことを求めている。(1)「稼働的概念」、(2)「顕現的概念」または理論、(3)「規範的概念」である。稼働的概念とは、言葉の使用と結びついた実践もしくは実践の集合である。顕現的概念とは、人々が言葉を理解するために使用する理論ないしステレオタイプである。そして、規範的概念とは目標、すなわち、私たちがそれに対して望むような制度的存在物である。これらの三つの概念はしばしば、かなりの程度重なり合っているが、不整合が生じることも稀ではない。たとえば顕現的概念と稼働的概念が対立する時には、人々がその言葉を使う仕方の経験的研究が、私たちがその言葉と結びつける顕現的概念の改定をもたらすかもしれない。たとえば私たちは、「同性愛」という言葉が主として生物学的な種類を指しているわけではなく、(たとえば医学的理由よりも)道徳的理由から不適切とみなされる行動の集合を指していることを発見するかもしれない。しかし、稼働的概念と顕現的概念が調和する一方で、その両方ともが、私たちのために設定している規範的目標と合わないということもありえる。

フランチェスコ・グァラ『制度とは何か──社会科学のための制度論』256-257

たとえば、タバコを主に交換手段として用いるならば、「タバコ」の稼働的概念は事実上、貨幣である。対照的に、顕現的概念は、ほとんどの人々によって意識的あるいは明示的に了承されている概念である。たとえば、タバコと言われて主に思い浮かべるのは、喫煙のための手巻きタバコかもしれない。外在主義によれば、制度の同一性と制度的用語の意味は、顕現的概念ではなく稼働的概念によって決定される。制度とは何かを知りたいならば、素朴理論ではなく人々の実践を研究しなければならないのである。したがって、ある共同体においてタバコが何であるか(貨幣)は、人々がそれが何であると考えるか(喫煙用の手巻きタバコ)によって決定されるのではなく、彼らがそれを使って何をするか(交換手段としてのタバコの使用)によって決まるのである。

フランチェスコ・グァラ『制度とは何か──社会科学のための制度論』245

キャラクターとは、特定の人物の振る舞いから、仮想の事態における特定の人物の振る舞いを予想することだと考えられる。この特定の人物の振る舞いは、キャラクターグッズでも一枚絵でも二次創作でも何でもよくて、振る舞いさえあれば可能だ。しかし、振る舞いのみでは、物語が進行して新たな振る舞いが付け足されたり、メディアミックスや二次創作で各々が好き勝手に振る舞いを付け足したりすると、キャラクターに矛盾が生じ、安定した予想ができなくなる可能性がある。これがキャラクター崩壊である。

キャラクター崩壊の何が問題なのかと言うと、普段どういう時にキャラクターを使用しているのかを考えると、主に物語を楽しむ時、他者とコミュニケーションを取る時、妄想する(二次創作)時なのではないだろうか。安定した予想ができなければ、伏線やミスリードが機能せず、意外性がないため物語を楽しめなくなるし、同じ人物のことについて話しているのに噛み合わず、他者とコミュニケーションが取れなくなるし、妄想もできなくなるだろう。

そこで重要となってくるのが物語の存在である。物語において一定の役割を課せば、それを果たすためのキャラクターとして安定した予想が可能となるのではないか。物語があることで、物語に沿ったキャラクターを念頭においておく必要が生じる。振る舞いが多くなりやすい主人公などは、キャラクター崩壊を防ぐために物語から課される役割も大きくなる。そうすることで、その物語に合わせた予想をすればいいわけで、物語の進行やメディアミックスや二次創作などでどんなに振る舞いを付け足されても、滅茶苦茶なキャラクターにならずに一定の人格を保てる。

キャラクター崩壊(キャラクターの振る舞いに納得がいかない)というのは、事前にその振る舞いを取る伏線がなかったり、事後にその振る舞いを取った経緯の説明がなかったり、あるいはその振る舞いが何らかの役に立ったという意義がない場合である。要するに、振る舞いが物語において機能していれば、キャラクター崩壊を防げる。例えば、クールな人物が笑顔を見せただけでは、クールなのか感情豊かなのかわからず、キャラクター崩壊してしまう可能性があるが、敵を欺くために作り笑顔をしているというそれっぽい理由や、仲間ができたことで初めて笑顔になれたというそれっぽい過程があれば、それはキャラクター崩壊とは思わないだろう。

物語は、笑顔の振る舞いが身体的反応を伝えるという本来の機能だけではなく、その振る舞いに意味を持たせることができるのだ。例えば、チェーンソーは本来は木を切るための物だが、ホラー映画では人を殺すための凶器である。ホラー映画においては、チェーンソーが出てきただけで恐怖するようになるだろう。このように、物語によって本来の機能にはなかった意味を持たせることができる。これは物語がなかったとしても、偶然チェーンソーで事件事故が起きた場合にも凶器のイメージがつくかもしれないが、物語はその偶然を意図的に作り出すことができる。さらには、現実において科学的に否定されていても、機能させることができてしまう。

エスカレーターで右に立つのか左に立つのかが国や地域によって変わるように、キャラクターは自然に印象が形成され定着することもあるが、物語が印象を統制することもできる。キャラクターは特定の人物の振る舞いから生まれるが、安定して使用するには、振る舞いを保証する物語という強いルールが重要なのである。物語があるのにキャラクター崩壊してしまうなら、物語が描写不足で納得できないだけということだ。納得できるだけの物語があれば、矛盾した振る舞いだとしても、それはキャラクター崩壊ではなく、新たな一面となり、キャラクターの成長となる。

例えば、ある物語では仲が悪い二人の登場人物が、別の物語では愛し合っているとしよう。これは矛盾であり、キャラクター崩壊してしまうように思える。しかし実際には、ある物語においてはある物語に従って仲が悪いと予想するし、別の物語においては別の物語に従って愛し合っていると予想するのではないだろうか。作り手や他の受け手も信じていると信じられるだけのその振る舞いを機能させるルールがあれば、その時々のルールに従って予想するので矛盾はせず、キャラクターは崩壊しない。

すべての媒体において矛盾がない振る舞いはそのままでいいが、矛盾がある振る舞いは、個々の物語に従って無視されるということだ。アニメの話をする時は、アニメの物語に従ったキャラクターを使用するし、ゲームの話をする時は、ゲームの物語に従ったキャラクターを使用するし、実写の話をする時は、実写の物語に従ったキャラクターを使用するし、二次創作の話をする時は、二次創作の物語に従ったキャラクターを使用する。初対面の相手とキャラクターについて話す時には、とりあえずそのキャラクターが登場する作品の中で、最も信じている人が多そうな人気のある媒体の物語に従っておくのではないだろうか。出来の悪い実写化や二次創作であれば、時間が経てば黒歴史化して忘れ去られ、キャラクターから完全に除外されるかもしれない。

キャラクターを他者とのコミュニケーションに用いる場合は、振る舞いや物語が事実である必要もない。一定数の人間の信頼があればいい。長期の作品ともなると見返したり全体の整合性を確認する人間が少なくなるため、妄想だとしても、作品を碌に見ない人間の間では機能し、妄想を基準にしたキャラクターが流通される。長期の作品ともなると記憶が薄れてくるし、様々なコンテンツが溢れる現代は、一つの作品に割ける可処分時間が限られるため、目立つ振る舞いとステレオタイプ的解釈といった認知が楽な方を優先し、前後に全然違う振る舞いと規則が提示されていても無視する輩は多い。事実として否定されていても、コミュニケーションや二次創作を媒介にして妄想を基準にした振る舞いは再生産され、その妄想を共有する視野狭窄な人間同士なら、キャラクターの使用に不整合は起きないので定着するわけだ。

人物の振る舞いとキャラクターの違い

人物の振る舞いとキャラクターの違いは、例えば「この戦いが終わったら恋人と結婚するんだ」という台詞が後の死亡フラグであることを知っていれば、その台詞は希望を語るものではなく、死を予感させるものになるように、物語の途中で成長する登場人物の成長後の姿を知ってから初期の成長前の姿を見ると、しみじみすることがある。初見で成長前の姿を見た時の経験と、成長後の姿を知ってから成長前の姿を見る経験とでは、同じシーンであっても異なる経験を得るだろう。この時、キャラクターは成長しているが、成長しているのは登場人物ではなく、受け手自身の信念である。

成長前と成長後で判別がつかない場合もある。例えば、オーロラドリームの第7話で、春音あいらが泣いて逃げ帰る行動を取ったのに対して、第46話では同じような事態で対決する行動を取ったことを自律的だと述べたが、キャラクターデザインに変更があったわけではない。キャラクターグッズや一枚絵などに描かれている場合、いつの時点なのか不明なため、どちらなのか判別がつかない。それのみでは判別がつかないが、物語を知っていれば、キャラクターとしては成長しているのである。

あるいは、ツンデレというキャラクターは、プレイヤーの選択によって物語が変わる恋愛アドベンチャーゲームの登場人物に使われたのが始まりだと言われている。日常的には「別にあんたのことなんて好きじゃないんだからね!」など、実は好きなのに照れ隠しでキツイ態度を取ってしまう素直になれない人物に対して使われるが、元々は主人公への好感度が低いためにツンツンした態度の人物が、物語が進むにつれて主人公への好感度が徐々に上がっていき、それに伴って態度が軟化してデレることを指していた。デレない(恋愛関係にならない)ルートもある中で、プレイヤーの選択によってはデレる可能性があるといったように、あくまでそうならないルートもあることが前提の可能性のひとつなのだ。しかし、多くのツンデレは、二面性のあるキャラクターとして捉えられている。ある物語では特定の人物はツンのみで変化がなくても 、他の物語ではその人物はデレるという知識があるだけで、その人物はツンデレとして認識されるようになる。つまり、特定の人物には起きていないことでも、キャラクターには受け手の知識にあるすべての可能性が含まれているのだ。

そして新たに付け足された人物の振る舞いと、既存のキャラクターとの間に不整合が起きた場合は、キャラクターが更新を迫られる。例えば、オーロラドリームにおいて、春音あいらは事前に望んでいたわけではないが、第50話で「皆の夢になる」という幸福を得ただろう。天宮りずむは事前に「母親との再会」を望んでいたが、第42話で実際に再会しても幸福は得られなかっただろう。キャラクターの望みが叶うことがハッピーエンドであり、キャラクターの望みが叶わないことがバッドエンドだと仮定すると、キャラクターは望んでいたわけではないが幸福を得るという場合や、キャラクターは望んでいたが実際に得てみると幸福ではなかったという場合を説明できなくなってしまう。なので、ハッピーかバッドかは、キャラクターの事前の望みが叶ったか否かで決まるのではなく、実際の人物の振る舞い(笑顔になったとかショックを受けたなど)で決まるはずだ。そしてこの場合、納得できる描写があるなら、キャラクターの方が更新されるということだ。

しかし、人物の振る舞いとキャラクターにはフィードバックループがあることもある。受け手の間でネタにされているキャラクターがいれば、公式も悪ノリしてそのネタを強調したような人物描写をすることがあるだろう。あるいは、例えば女性というだけで「女性はSTEM系(科学、技術、工学、数学)が不得意」というキャラクターによって、本当は得意だったかもしれないのに周囲から期待されなかったり、自らもSTEM系を避けてしまい、実際に不得意になってしまう可能性がある(本当に不得意な女性が多いのかもしれないが)。そのまま放置しておけば、その人物が他に持っているかもしれない才能を殺し、抑圧することにもなりうるだろう。そういう時に、物語によって新たな事態に遭遇させ、その人物の新たな一面を引き出すことで、「最初から決められている特徴や気持ち」に支配されたキャラクターではなく、わかりやすい特徴だけでは決め付けられない自律的なキャラクターとなる。

物語は登場人物に役割を課す。これは物語の目的のために登場人物を手段として使っているように思える。しかし、人は提示されている選択肢の中にない選択肢は選べないので、主体的に決めたと思っていても、それはその時の環境の目的に従った選択でしかないかもしれない。だとすれば目的に従うことを否定するのではなく、複数の目的から選べることが自律的と言えるのではないか。確かに物語から課される役割が大きければ、キャラクターは停滞する。だが、成長に繋がる新たな振る舞いを引き出すことができるのも、物語なのである。もちろん、これはキャラクター崩壊の危険性とも隣り合わせなのだが、「物語の都合で動かされているのではなく、キャラクターがひとりでに動き出す」というのは間違いで、信頼できる物語があるからひとりでに動き出したように思えるのだ。物語の描写が足りているか否かであり、物語が必要ないということではない。重要なのは物語の質と、遭遇する事態のバリエーションである。

遺伝学的に根拠があるキャラクター、社会統計学的に根拠があるキャラクター、個人の経験からのキャラクター、好き嫌いからの願望や無関心による雑な決め付け的なキャラクターなど、様々な度合いのキャラクターがありうるが、基本的には遺伝学か社会統計学を優先し、科学的に否定されているキャラクターは物語においても否定されるべきだろう。だが、現状の科学において特定の人物の特徴として不確かであり、かつ非対称なリスクがある場合でなければ、一つのキャラクターだけではなく、複数のキャラクターを知った上で、その中から責任を持って選べることがキャラクターの成長に繋がるのではないだろうか。

あなたが不要な過剰生産について語れるのは、あなたが事前に、何が、誰によって生産されるべきか、そして個々の消費者が何を購買し、また消費したいのか、を知っている時だけである。機能している競争市場において過剰生産とされるものは、余分なものではなく、不可欠なものである。なぜなら、競争を通して初めて、最善でもっとも革新的な解決に到達することができるからである。

クリストフ・リュトゲ『「競争」は社会の役に立つのか:競争の倫理入門』22

キャラクターの意義

物語はキャラクターを停滞させたり崩壊させてしまうこともあるが、物語なき振る舞いにのみ任せていても、キャラクターは停滞や崩壊してしまう可能性がある。もちろん、キャラクターの停滞や崩壊が物語なき振る舞いによって起きるとしても、物語なき振る舞いのすべてがキャラクターの停滞や崩壊になるわけではない。一つの物語に回収されない無駄があってこそ、キャラクターは自律的になるしリアリティが宿る。だが、前後の描写(事前にその振る舞いを取る伏線や、事後にその振る舞いを取った経緯の説明、あるいはその振る舞いが何らかの役に立ったという意義)がないのに、無闇に予想を外すような人物描写だけがある場合は問題がある。勝敗予想と同じで、ルールがないなら予想することを諦めて関心すら持てなくなるだろう。約束が守られるかわからない不確実な状況では、予想するという努力は無駄になるからだ。

「キャラクターなんて勝手な印象の押し付けなんだからなくていい」というのは間違いだ。そもそも予想しないというのは不可能だ。人が知覚している世界とは、脳が予測した世界である。キャラクターそれ自体の否定(人物の振る舞いは予想できない)というのは、成長の可能性の否定であり、格差の温存である。予測できないならエラーも更新もないように、現状を不可謬にしてしまう。現状を変えるには、あくまでキャラクターは振る舞いの予想であり、どのような予想であっても完全とは限らないと考える必要がある。予想だからこそ、そこには間違いがあり、現状を変えられる可能性が生まれる。予想それ自体を否定するのは、現状こそが完全だと言っているようなものであり、現状を変えられないものにしてしまう。

キャラクターを停滞させたり崩壊させる物語を批判し変えることができるのは、自分が信じたキャラクター(の根拠となる過去の振る舞いの蓄積)があるからだ。キャラクター化の放棄は、「キャラクター化できない特殊な個体というキャラクター化」でしかなく、「人間は科学や理論では捉えられない特殊な個体なのだ」と神格化が行われることになる。それこそが「他者は理解できないという理解」の押し付けであり、虐待やDVや格差や偽医学などの放置に繋がりうる。

キャラクターは勝手な決め付けかもしれない。過去に10万回や100万回の振る舞いの蓄積があっても、10万1回目や100万1回目も同じとは限らないし、間違いだったと発覚するかもしれない。だが、自分自身についての自己認知だって自分で自分をキャラクター化して勝手に決め付けているだけである。病院で精密検査を受けなければ病気に気付くことはできないし、虐待やDVや依存症や貧困などの場合、自力のみで脱出するのは困難だろう。自力のみでは自分の才能に気付けないことだってある。キャラクターによって才能を殺すのは、自分自身の場合だってあるのだ。

現状の認識が予想ではないなら間違いという概念は存在しないため、現状を変えることはできない。他者が予想するキャラクターは、間違っていれば自分の振る舞いの応答によって更新可能性がある。しかし、自分が予想するキャラクターは、自分の中だけで完結しているため、間違えても間違いに気づくことができない。予想のリスクを減らすのは科学的根拠の有無であって、予想するのが自分なのか他者なのかではない。そして自分一人では視野狭窄で間違いに鈍感だ。自分が自分について間違いうる時、そのリスクを軽減させるのが物語であり、他の登場人物の存在なのである。適切な競争によってのみ間違いは最小化される。

物語の意義

例えば、オーロラドリームの第44話で、春音あいらがオーロラライジングに挑戦することをあいらの両親に了承を取ろうとするシーンで、阿世知今日子のこのような台詞がある。

オーロラライジングは私の夢です。私がまだ現役だったころ、全力を尽くして挑戦し続けてきましたが、叶いませんでした。でも、今私の目の前には、それを実現できるあいらさんがいる。あいらさんには、あいらさんにしか成し遂げられない、あいらさんだけが辿り着ける未来があるんです。

オーロラライジングに挑戦することにはリスクも伴い、今日子の勝手な夢であいらに期待することに、あいらの母親は「絶対に許しません」と反対するのだが、あいらの父親はこのように答える。

お恥ずかしい話ですが、まさかあいらにそんな才能があるなんて、夢にも思いませんでした。だってそうだろ?あのドジでノロマなあいらの才能に、俺たちは気付いていたか?毎日顔合わせてるのに、面白いもんだな。素晴らしいことじゃないか、あいらのことをこんなに期待してくれる人がいるなんて。

あいらは両親のもとでは、ドジでノロマという限られた振る舞いしかできなかったが、オーロラライジングを求める今日子によってプリズムショーを始めさせられたことで、一人では発見できなかった隠れていた才能に気付くことができた。自由な振る舞いに任せているだけでは、「限られた自由な振る舞い」のキャラクターにしかなれない。そういう時に、物語によって新たな事態に遭遇させ、新たな振る舞いを引き出すことで、隠れていた才能を発見できるのだ。

物語は人物にキャラクターとして振る舞うことを要求し、自由な振る舞いを奪うだろう。だが、自由な振る舞いにのみ任せるのも、他の振る舞いの可能性を隠し、「限られた自由な振る舞い」に閉じ込めて自由な振る舞いを奪っている。確かに誰にとっても不満がない物語はありえないし、物語は進行するのに時間もかかるので、受け手の各々の印象に任せた方が柔軟に対応できる。それによって良質なキャラクターになることもあるだろう。しかし、それのみでは様々なリスクや情報を考慮した適切な競争ができるとは限らないため、ステレオタイプに偏って停滞してしまったり、新たな振る舞いがあってもキャラクターの安定的な成長は望めず、常にキャラクター崩壊の危険性と隣り合わせだ。物語という強いルールを置いて吟味するからこそ、「最初から決められている特徴や気持ち」の支配の脅威から守られ、「複数の異なる特徴や気持ち」の中から選べる自律的なキャラクターになれるのだ。

物語の問題点

注意しなければならないのは、一つの物語ではどのような表現であっても公正ではない。例えば、女性はおとなしいという信念しかない中で、活発に振る舞う女性の登場人物が活躍する物語を描けば、女性というキャラクターを更新させるだろう。ただし、前者を女性の在り方を一つに決め付けて抑圧していると批判し、後者を公正だとするのは間違いだ。後者が公正だと言えるのは、女性はおとなしいという信念があることが前提であり、活発に振る舞う女性の登場人物が活躍する物語単体では、それもまた女性の在り方を一つに決め付けており、抑圧することになる。

そもそも登場人物は個体であり、「〇〇な女性の登場人物」ではあっても、「女性は〇〇な存在」という代表ではない。しかし、実態を正しく把握し難い場合においては、目立つ者が代表性を帯びてしまう。例えば、LGBTの人物が他に認知されていなければ、コメディリリーフLGBTの登場人物は、「そういう人もいる」ではなく、その登場人物がLGBTの典型という印象を与えるだろう。当事者内にも格差があり、目立ちやすかったり、権力や知識のある当事者の中の強者の在り方を基準にすると、当事者の中の弱者が抑圧される可能性がある。そういう場合に、キャラクターを固定化させないことには価値があるだろう。

しかし、例えば「看護師」や「保育士」といった言葉のように、対象の属性を限定しない表現によって未分類のまま留保させようとするのと違い、映像作品の登場人物は、役割と性別などを限定させたくなくても、演じる役者だったり、デザインだったり、尺の都合によってある程度は限定されてしまう。これを避けるには、一つの役割に対して、異なる属性を持った複数の登場人物を出すしかない。だが、容姿・職業・性別・文化・人種・民族・信仰・思想・性癖・健康(障害)・年齢・婚姻状況といったあらゆる事柄のあらゆる組み合わせを網羅するとなると、登場人物の数が膨大になり、一つの物語では実現不可能である。結局は偏らざるを得ない。なので、公正と言っても実際は「従来のステレオタイプに対抗するステレオタイプ」に偏っているだけなのだ。「従来のステレオタイプに対抗するステレオタイプ」が悪いというわけではない。従来のイメージを覆すような物語が出てくることには価値はある。しかし、科学的な根拠があるわけではないなら、一つの物語が単体で公正にはならない。科学的根拠がない場合、フィクションにおける公正が可能だとすれば、社会全体の中に様々な表現があることで可能になるのではないだろうか。

特定の人物に偏った振る舞いしか与えない物語には批判が可能だ。ウケが悪いキャラクターがいれば、挽回できるようなエピソードが追加されたり、掘り下げられて別の一面が描かれることがあるだろう。そうやって物語に問題があるなら、登場人物の代わりに受け手が批判し、物語を見直させなければならない。しかし、批判は好きにすればいいと思うが、作り手はすでに機能している物語の変更は慎重に行う必要がある。批判を行うことでフィードバックが良い方に働くこともあるが、悪い方に働くこともある。科学的根拠がない場合、映像作品においては未分類のまま留保もできず、どのような表現も単体では公正にはなりえない。ウケが悪くても、そのキャラクターがそのままで好きな受け手もいるはずだ。むしろ、社会全体の中では希少な表現かもしれず、下手に変更すれば、それこそが公正さを損ねることになりかねない。そして批判は兎も角、一つの物語を変えるよりも、新たな物語を作り世に出す方が、フィクションにおいては公正に近づく。

一つの物語には尺がある。所詮は限られた箱庭の中での規則でしかない。限られた尺がない現実では、提示されている情報において規則を発見したとしても、新たな情報が出てくればその規則では説明がつかないかもしれない。自律的なキャラクターと言っても、未分類のまま留保はできず、結局は最終的に機能した選択がキャラクターを支配する。むしろ、自律的なキャラクターのための対立だの葛藤だのというのは、批判的思考を促すには逆効果なのではないか。作中で登場人物が批判されないと「都合のいい物語」と受け手からは批判されやすくなる。反対に、作中で批判があるような場合は、受け手は自分が批判しなくてもいいやと思い、批判の目を向けなくなるのではないか。作者が用意した些末な作中批判によって批判的思考は奪われ、その選択の重大な問題点は隠蔽される。作中で対立や葛藤があっても、「それでも俺はこの道を進むんだ!」とか言って美化されるだけだろう。対立だの葛藤だのを乗り越えた選択ほど、受け手は疑えなくなってしまうのだ。

その点、プリティーリズム・オーロラドリームは、第49話と第50話で行われるプリズムクイーンカップという大会において、夢を得て競争の舞台を発展させる春音あいらのオーロラライジングドリーム、夢から解放されて競争の舞台から降りる天宮りずむのオーロラライジングファイナル、二つの自己を統合させる高峰みおんのエターナルビッグバン+ビューティフルワールドがある。夢や成長の魅力を描いた物語でありつつも、恋愛や友情や家族愛の魅力といった相反する物語があることで、各々のキャラクターの最終的な選択を可謬的に留めているのである。夢は続いていく。