プリティー研究所

プリティーリズムの考察など

キンプリ KING OF PRISM Shiny Seven Stars 第11話の感想と批判

キンプリSSS第11話の感想を書く。

本編の内容としては、第11話でスポットが当たるのは一条シン。前回からシンに宿っているシャインが完全に覚醒したことで意識を乗っ取られており、レオがデザインした衣装ではない衣装でステージに上がる。シンの意識が戻ると、すでに出番は終わっており、0カラットという結果が表示されている。残すはユニット対決のみとなる中、シンは医務室に運ばれ、眠りにつく。夢の中でシンが生まれてから今に至るまでにあったことが語られる。シンは眠りから覚め、自分がステージで何をしたのかを知るため、意識がない自分が行ったプリズムショーの映像を見る。映像を見終えると、ちょうどTheシャッフルのプリズムショーも終わり、シュワルツローズとエーデルローズは逆転不可能の得点差がつき、シュワルツローズの勝利が決定する。エーデルローズの敗北が決まりながらも、エーデルローズの誇りを見せるため、エーデルローズ生たちはユニットショーに臨む。

良かった点は、今までと違った雰囲気のプリズムショーはよかった。

悪かった点は、前回もそうなのだが、前作や前々作からの使いまわしの回想シーンが多く、半分総集編のようになっている。前回はルヰ(=りんね)視点で、今回はシン(=シャイン)視点で前作前々作の謎だった部分が明かされるのだが、前回は説明として必要だったとは思うが、今回も使いまわしが多いのは残念だった。この後シンはシャインから解放されるのか、それとも共存していくのかわからないが、回想よりもシャインから独立したシンの人柄がわかるような新規のエピソードが必要だったのではないか。

シンにスポットが当たる話というよりも、シャインの話になってしまっている。シンのプリズムショーのスタンスの行きつく先はシャインのようになる可能性があるとか、そうならないためにはどうするかといった話なら、シンにとっても意味があると言えるが、そうではなくシャインは完全な別人格でスタンスも違うのであれば、プリズムショーも物語もシンとは関係なく、見せ場がすべてシャインに乗っ取られている。シンの見せ場は最終話にあればいいが。

前作でシンがプリズムジャンプを飛べなくなったのも、そのあと飛べるようになったのも、実際は全部ルヰ次第だったわけで、エーデルローズのみんなの信頼や特訓のおかげで飛べるようになったといったシンとエーデルローズ生たちとの真っ当な友情や成長の物語にできたはずなのに、そうならずに、このプリズムワールドの設定のせいで友情や成長が台無しになっている。前回も思ったが、このプリズムワールドの設定は、キャラクターたちの活躍を台無しにするだけに思える。

あとシャインのプリズムショーが0カラットの理由がよくわからない。ジュネは「冷たい、ぬくもりが感じられない」と言うのだが、雰囲気的すぎるし、ジョージは「やりすぎはよくない」と言うのだが、もともとプリズムショーは奇抜な演出であるため、やりすぎと言われても、今までのプリズムショーと比較して何がやりすぎなのかわからない。例えば、前作で会場を破壊したアレクのプリズムショーですら喜んでいた観客はいたわけだ。あれはやりすぎではなかったのか。シャインのプリズムショーは連続でいくつもプリズムジャンプを飛んだ程度で、一人も喜ばなかったというのはなぜなのか。

「僕が一番みんなを愛することができる」という過信が原因とも考えられるが、前作では「みんなの心を最も輝かせることができるのは俺だ」と言って強制的に屈服させるプリズムショーを見せたヒロが優勝しているので、そういう自負心が原因とも考え難い。そもそも過信することは過信することによって失敗することや間違いを修正できないことが問題なのであり、過信することそれ自体は別に否定されることではないだろう。今後シャインを乗り越えるような展開になっても、ここがわからないと乗り越えられた理由もわからなくなる。

それにプリズムの使者はすべての人を魅了してしまうから表舞台に立ってはならないという設定があったはずが、魅了できていないなら結局その設定は何だったのか。プリズムの使者が支配してしまうと発展が滞るということだと思うのだが、プリズムショー自体がプリズムワールドから持ち込まれたものであるなら、プリズムショーの発展が滞っても人間には支障がないし、そもそもプリズムショーを発展させることはプリズムワールドの住人によって仕組まれたことでしかないので、むしろプリズムショーを発展させることの方が、プリズムショー以外の人間独自の文化の発展が滞り、支配されていると言えるのではないか。