プリティー研究所

プリティーリズムの考察など

プリティーリズムを認知神経科学と社会心理学の本を参考にして考察する 第3章 オーロラドリームとレインボーライブの違い、プリティーオールフレンズのビッグクッションカバーの販売中止から見える歪み

前回までのおさらい

第1章では、不幸アピールする者は不幸とは限らず、弱者のふりをして同情を誘い、事実を明らかにするよりも自分を優位な立場に置きたいだけの姑息な人間である可能性があること、本当に不幸な者はむしろ自己主張できないこと、「人は他者を理解できない」だとか主張する人間は傲慢な自己愛であり、実態は自家撞着した間抜けであること、同調・許容の「共感的理解」は馴れ合いか排除の両極端にしかならず事実を明らかにできないこと、対立から逃げずに「客観的理解」を求めなければ死に至る可能性があることを明らかにした。

第2章では、先入観のエラーこそが人間味であり、悩む振る舞いによって相反する価値を知っていると思わせ、注意を向けられるキャラクターに人間味があること、悩む振る舞いのみでは正確な知識の有無はわからないこと、あくまで価値の可能性であって価値ではないことを明らかにした。

これらを踏まえた上で、第3章では、プリティーリズム・オーロラドリームの何が新しかったのか、何が面白かったのかを語りたい。

オーロラドリームとレインボーライブの違い

プリティーリズム・オーロラドリームの春音あいらの父親は、娘であるあいらに自分の趣味の服*1を着させようとしたり、経営しているケーキ屋を継いでほしいと言って、娘本人の意思に反するにもかかわらず、プリズムショーをやめさせようとしている。プリティーリズム・レインボーライブ蓮城寺べるの母親は、「完璧なショー」「トップじゃなければ駄目」という英才教育を施し、トップになる望みが薄れるや否や「トップになれないなら続けるだけ無駄」と言って、娘本人の意思に反するにもかかわらず、プリズムショーをやめさせようとしている。このようにあいらの父親とべるの母親はどちらも「子供に干渉し自分の理想を押し付ける親」という点で同じはずなのに(しかも、あいらの父親はおしゃれではない服といった私的な理想なのに対して、べるの母親は一般的に価値のある理想にもかかわらず)、視聴者からはあいらは幸せな家庭、べるは不幸な家庭だという正反対の印象を抱かれている。なぜ印象が異なるのか。

それはあいらとべるの違いに他ならない。あいらが自分に自信がなく夢を持てないのは、「父親が娘の意思を無視して何でも勝手に決めてきたせいだ」というありがちな虚構因果関係を捏造できるはずなのに、あいらは大袈裟な感情で不幸アピールしない。むしろ、周囲から同情されるどころか、夢を持てないことはあいら自身の責任だと責められてすらいる。あいらは父親に一方的に従いはしないながらも、今の自分があるのは父親のおかげだと感謝もしている。父親が干渉してくるのは自分を心配してくれている側面もあることを理解し、何か行う際も自分を過信せずに、父親に相談し承諾を得ようとしている。このようにあいらは、りずむやショウなどからも謂れのない罵声を浴びせられることもあるが、他者を大切にして感謝しているから、相手にも一理あるかのような印象すら与える。つまり、あいらは自分の悩みの原因を根拠もなく他者だけに帰属させるような、偏見的な因果関係を捏造しないし、自分の成功を自分だけの力だと美化もしない。

監督の菱田正和は、プリティーリズムの監督をする以前のインタビューでこのようなことを言っている。

また菱田氏は「クリエイティブな仕事は、好き勝手にできるというイメージがありますが、実際は、クライアントさんがいて、そのオーダーを元に作ることが多いです。なので自由にできるということはかなり少ないと思います。ただクリエイティブな心を持っている人なら、手足縛られても絶対にクリエイティブなものが溢れ出てくるはずです。だからどんなにつらい仕事でも諦めずに頑張ってください」とアドバイスした。

菱田氏は、若手だった当時、「機動戦士ガンダム」の監督で知られる富野由悠季監督に「絵コンテを描くときは個性を出すな、全部個性を捨てて描け。全部個性を捨ててもそこに描いてきたものには必ずお前の個性が残っているんだ」と言われ、励みになったというエピソードも披露した

心の問題となると、他者に縛られない自己といった陳腐な自己啓発遊びへの同調になりがちなところを、プリティーリズム・オーロラドリームは他者や環境と身体との相互作用によって心や個性は作られているという物理的な事実を無視しなかった。しかもその運命を自分の意思でコントロールできないことの悲劇としてではなく、好意的に描いた稀有な作品だった。

べるは母親との関係や、第34話の「他人の視線なんて気にしてないわ」という台詞、第38話の自分だけで服をデザインすることなどから、他者から解放されることで自分本来の輝きを取り戻す物語となっている。それに対してあいらは、第5話で父親から押し付けられた服を全否定はせずにリメイクであったり、純さんに連れられ、りずむやみおんやショウ達と出会い、阿世知社長に託され、観客の期待があるおかげで自分は輝けると人々に感謝している。自分本来の輝きなんてものはなく、他者のおかげで輝けるという物語となっている。

自分とプリズムストーンのコーデを信じて思いっきり跳びました。
今日、私を見に来てくれた大切な人のために最高のジャンプを決めたかったから。
いつも見守ってくれてありがとうパパ。
プリティーリズム・オーロラドリーム 第5話

プリズムってそれだけじゃ輝かない、光を受けてこそ輝くんですよね。
だから、これを着こなした私がリンクで輝けるかどうか見ててください。
プリティーリズム・オーロラドリーム 第10話

私は、何の取り得もない、ドジで引っ込み思案な女の子だった。
でも、プリズムショーに出会ってから、沢山素敵な人に出会えた。
りずむちゃん、ショウさん、ヒビキさん、ワタルさん、阿世知さん、純さん、ラビチたちも。
そしてパパ、ママ、いつき、うる、える、私はみんなのおかげで、こんなに素晴らしい舞台に立たせてもらっている。
プリティーリズム・オーロラドリーム 第12話

今まで、夢が何なのかよくわからないまま、ただ一所懸命走り続けてきただけ。
それがいつの間にか、みんなの夢になってるなんて。
みんなの想い、受け取ったよ。
プリティーリズム・オーロラドリーム 第50話

あいらは偏見ではないものの、「自分の幸せは他者のおかげ」という因果関係を操作しているとも言える。しかし、この「自分の幸せは他者のおかげ」という因果関係は、果たして誤りであろうか。綺麗事でも何でもなく、事実として今この文章を書けるのも読めるのも、パソコンやスマホがあるからだ。インターネットがあるからだ。言語があるからだ。そしてそれらはすべて他者の知識と労力によって提供されているものだ。パソコンやスマホがどういう仕組みで成り立っているのかを詳細に説明できる人間は僅かであろう。それがわからなくても利用し楽しめるのは他者の知識と労力のおかげである。もちろん仕組みをわかったとしても、その知識は自分一人で発見したわけではないし、自分一人では部品を作ることも、今の環境を実現できる人間もいない。家も、食事も、服も、すべて他者によって提供されている。他者の知識と労力がなければ、アニメは存在することも、アニメを面白いと思うことすらできない。誰にとっても「自分の幸せは他者のおかげ」という因果関係があるはずだ。他者がまったく関わらない幸せは快便くらいしか思い浮かばない。これも恐らくさいとうたかをの『サバイバル』の記憶から思い浮かんだ。

私たちには他者から学び、模倣し、共有し、改良する能力がある。人間が口頭による言語を使い始め、やがて文字による言語を駆使して意思の伝達が活発になると、考えや知識、さまざまな技能(釣り針や船、槍のつくり方、歌の歌い方、神の像の彫り方など)が遺伝子のように複製され、融合されるようになった。ただし、時空を超えて人から人へと伝えられる点が遺伝子とは異なる。文化のおかげで人は生物学的な制約から解放された。進化生物学者のマーク・パーゲルによると、人は文化を手にしたとき、「遺伝子と知性」の力関係を変えた。人は生きるための指針をDNAだけでなく、先人たちが積み重ねてきた知識からも引き出す唯一の種となったのである。

人は仲間から学ぶこともできれば(「水平的学習」)、親や年長者から学ぶこともできる(「垂直的学習」)。さらには先祖から学ぶことも可能だ。同世代間だけでなく、世代を超えて知識を伝えられる能力があるからこそ人はこれほど適応力に優れ、独創性と創造力に富んでいる。知識は知識の上に、アイディアはアイディアの上に積み重ねられてゆく。自動車が誕生したのは、その発明者が車輪から発明しなくてすんだからだ。パーゲルはこんなふうに述べている。「文化のおかげで人は3Dテレビを楽しみ、大聖堂を建てる。かたや私たちと遺伝子的に近いチンパンジーは数百万年前と同じように森で暮らし、同じように石でナッツを割っている」

文化的な生き物が好奇心をふくらませるのは当然の成り行きだった。人間は進化の過程で、いきり立ったクマに出くわしたときに逃げ出す本能を獲得したが、それと同じように確実に文化を蓄積する能力を高めてきた。発達心理学者のアリソン・ゴプニックは、「人間にとって、文化を育むことは天性の能力である」と指摘する。文化的情報を求めてやまない知的好奇心があったからこそ、私たちの祖先はアフリカを旅立ち、世界のすみずみに根を下ろすことができた。山の向こう側に何があるのか知りたいと思うのは拡散的好奇心のなせるわざだ。それに対して、知的好奇心はそこで生き延びるのに必要な知識を授けてくれる。マーク・パーゲルの言葉を借りれば、文化の積み重ねからなる人間社会は、まさに私たちが「生き延びるための手段」でもある。そして人間は生まれながらにして、自分を取り巻く社会を探究したいという力強い本能をそなえている。

イアン・レズリー『子どもは40000回質問する あなたの人生を創る「好奇心」の驚くべき力』p43-44

「実際に他者に問題があったらどうする」という反論があるかもしれないが、「自分の幸せは他者のおかげ」とは提示しているが、「他者からの抑圧がない」とは別に提示していない。あくまでもあいらは自分の力を過信せずに、他者の存在を大切にしているということだ。他者に一方的に従いはしないが、かといって安易に他者は自分を抑圧するだけの存在と決めつけるようなこともしない。ここにあいらの公正さが見て取れる。不幸アピールして自分だけに注意を向けさせて優越感に浸るのではなく、自分の苦労だの努力を大袈裟にアピールせずに地道に頑張ってきた子が報われる。親友だと思っていた相手から謂れのない罵声を浴びせられて悲しいはずなのに、不幸アピールしたり相対主義で対立を誤魔化すような姑息な手段も取らず、かといって罵声を浴びせ返すでもなく、人から嫌われても公正に物理的事実と向き合って人のために頑張ってきた子が人から評価される。オーロラドリームはそういう作品だったのである。現実には不幸アピールに騙される人間は多いのかもしれない。不幸アピールするような自己愛と自己主張が強い人間が成功するのかもしれない。正直者が報われるとは限らない。これは理想なのかもしれない。しかし、この優しい理想を描いた作品を個人的には評価したい。

自分をくすぐっても効果がないことは、一般的な経験からはっきりしているし、これには科学的な裏づけもある。結論を先取りすれば、その理由は予測の存在にある。私たちの脳は、くすぐる感覚を引き起こす指に自ら命令を送っているので、どう感じるかを予測できてしまうのだ。

(中略)

くすぐるという動作は特別なものではない。人が動くときには必ず、身体やその他のものに接触しなくてもある種の感覚が引き起こされている。筋肉や関節には感覚受容器があって、筋肉の緊張の度合いや関節の角度を測る。こうした受容器は手足を動かすことで刺激を受けるが、それに対する脳の反応は手足を自分で動かすときには抑制されている。誰か他の人によって手足が動かされると(すなわち受動的な動きでは)、大脳皮質の反応はずっと大きくなる。私たちの脳は他人が手足を動かしているときは次に何が起きるか予測できないので、運動の感覚が抑制されないのである。

予測することがよいことだという理由はいくつかある。何が起きるのかを知っていれば、気を楽にもてる。何をしたらいいか、そのつど新たに計画をたて続ける必要がなくなる。計画を変えるのは予想しない出来事が起きたときだけでいい。また、何が起きるのかを知っていれば、自分で状況をコントロールできていると感じられる。

私たちはみな何かをコントロールしているという感覚を好む。最もよくコントロールできるのは自分の身体だ。だがこれとは裏腹に、脳は予測可能な身体感覚を抑制するので、コントロールが最も強くできているときには実は何も感じていないのである。 

クリス・フリス『心をつくる―脳が生みだす心の世界』p128-131

オーロラドリームでかなめがあいらに惹かれたのはなぜか。それはあいらが人のためを想ってプリズムショーをしているからだ。自分のためだけに行っているプリズムショーは、自分は一人しかいないため変化に乏しい。一度見たプリズムショーを完全にコピーできるかなめにとっては、新鮮味がなく退屈になってしまう。それに対して人のためを想って行っているあいらのプリズムショーは、人の数だけ変化がある。どのような相手であっても出会いに感謝して、人のためを想って行うあいらのプリズムショーは、出会った人や観客との相互作用によって変化するため、常に新鮮で変化に富んでいる。情報に広がりがある。だから一度見たものをコピーできるためすぐに飽きてしまうかなめは、あいらを面白いと評した。レインボーライブは連続ジャンプなどと言って、毎回〇連続目は同じジャンプを飛ぶ。それに対してオーロラドリームでは、同じジャンプを飛んでも回を追うごとに変化(フルーツの数や種類が増えたりエフェクトが変わったり)がある。ここに明確な違いがある。

さまざまな研究から、結婚の満足感は早い段階で急激に落ち込む傾向があることが明らかになっている。夫婦に隔たりができる理由の一つは、相手がいることで自分が変わる新鮮な気持ちがなくなるからではないかとアーロンは推測する。他人の目を通して世の中を見るのは胸が躍る経験だ。それは自分という存在が他者の存在によって再構築される感覚である。ところが、互いのこだわりや風変わりなところ、意外な強さといったものを知り尽くし、レストランや旅行先の好みも熟知し、互いの友人とも知り合いになると、今度は目新しさの蓄えを積極的に補充しなければならないとアーロンは指摘する。実際にそうしている夫婦は幸せな状態を保っていることが多いという。

イアン・レズリー『子どもは40000回質問する あなたの人生を創る「好奇心」の驚くべき力』p212-213

 

プリティーリズム・オーロラドリームの新規性

べる及びレインボーライブの物語は、自分は本来輝いているという前提で、他者との関係によって抑圧され、本来の輝きが曇ってしまった状態から解放されなければならない、個人の力が世界を変えるという物語なのに対して、あいら及びオーロラドリームの物語は、本来の輝きなんてものはなく、自分の力だけでは輝けないという前提で、他者によって輝かせてもらっている、世界のおかげで自分は輝けるという物語なのだ。この様々な他者との関係によって成長・変化していくという物語を、様々な服の組み合わせによって可能なプリズムジャンプが変化するという原作のゲームシステムと調和させたことこそが、プリティーリズム・オーロラドリームの独自性であり新規性であった。この最も重要な部分が後のシリーズには何も継承されなかった。それどころか、「何ものにも縛られない心」を美化し、観客や審査員は敵として描かれ、自分の気合によって変化するセブンスコーデや、デザイナー不在で自分だけで服をデザインしてしまったり、他者から衣装を継承されることもなく、他者の見立てによって自分の魅力に気がつくといったこともなく、プリズムショーは独り善がりなものになってしまった。

はるか昔には私たちの先祖たちもまた孤独だった。かれらには物理世界のモデルは構築できても、それを他者と共有できなかった。この段階では各人がもつモデルに対して真実というものはどうでもよかった。頭の中にあるモデルが物理世界を真に反映しているかは問題とならなかった。重要なのはそのモデルが次に起きることを予測できるかどうかだけだった。しかし私たちが物理世界のモデルを共有できるようになると、他の人のモデルは自分と微妙に違っていることを発見する。中には世界の一面について明らかに優れたモデルをもっている人たち、すなわち専門家がいることに気づく。多くの人々のモデルを集めれば、一個人が生み出すどんなモデルよりも優れたものが構築可能である。やがてこの世界に関する知識はもはや個人の人生から出てきたものではなくなる。知識は世代を越えて継承されるようになるのだ。

クリス・フリス『心をつくる―脳が生みだす心の世界』p230

着たい服というのは他者からの期待や環境からの要請(流行、ドレスコード、寒暖、着心地)で決まる。それを反復することで内面化されて、その場の他者や環境に反する意思(おしゃれの価値観)を持つこともあるというだけで、他者からの期待や環境からの要請と自分の意思が対立しても、その自分の意思とやらも別の他者からの期待や別の環境からの要請を記憶していることで成り立っている。オーロラドリームは「心の飛躍」「なりたい自分」といった観念的な言葉が出てくるが、他者の期待を理解することや、他者の作った服のおかげで自分自身を理解できたり変わっていったりすることで、世界の上に自分が成り立っていることを意識させていた。だから無から新しく作るのではなく、大人からの継承であり、服もジャンプも過去からの積み重ねを踏まえた上でのプリティーリメイクだった。一方の花ではなく、あまねく風体を知ることで、まことの花を持つことができるのだ。

私たちが子どもの好奇心を美化するのは、それが純粋無垢であることに魅了されるからだ。しかし、創造性は空白から生まれるわけではない。優れたイノベーターや芸術家は膨大な知識を蓄えていて、必要な情報を無意識に引き出すことができる。それぞれの分野の法則を熟知しているからこそ、それを書き換えることに集中できるのだ。彼らはアイディアや主題を何度も混ぜ合わせ、そこから類推を働かせ、変わったパターンに目を留め、ようやく独創的な飛躍に至るのである。

イアン・レズリー『子どもは40000回質問する あなたの人生を創る「好奇心」の驚くべき力』p148

そもそも「何ものにも縛られない」という表明は言語と声や文字に縛られている。それは他者との関係と身体があってこそ可能。何ものにも縛られない心があったとしても、知覚するには言語や身体が必要であり、知覚できた時点で必ず他者や身体に縛られていることになる。「何ものにも縛られない」は「何ものにも縛られないという縛り」であり、これも一つの立場でしかない。「何ものにも縛られない(という縛り)」は批判を免れる絶対の立場ではない。

例えば人に「こんにちは」と挨拶をするとしよう。それは「相手にも挨拶してほしい」という期待であり要求である。あるいは人に疑問形で質問するとしよう。それは「質問に答えてほしい」という期待であり要求である。つまり、他者とのコミュニケーションというのは必ず他者に作用を及ぼす期待や要求があるのだ。「他者の期待は抑圧だ」というのであれば、コミュニケーションを取ること自体が抑圧であるし、「他者の期待は抑圧だ」という主張を声をあげてした時点で、「自分の意図を正しく理解しろ」「主張に賛同しろ」という他者への期待や要求がある。このような主張をする人間は、自分が何をやっているのかすら理解していないのである。「人は他者を理解できない」だとか主張する人間と同様、自分が同調している立場に無自覚であり、自分の自由な言動は行いたいが、その責任からは逃れたいという人間の自家撞着である。

心的世界をモデル化する能力によって、人はまったく新しいやり方で 他者の行動を変えられるようになった。物理世界では行動は報酬と罰によって変わっていく。苦痛をともなうことはやめる。快楽をもたらす行為は繰り返す。他者の行動も報酬と罰を操ることで変えられる――これが動物の訓練方法だ。しかし心的世界では行動を変化させるのは知識である。今は雨が降っていなくても、午後に雨が降ると考えていれば傘を持って出かける。そして私たちは知識を使って他者の行動を変えることもできる。遠く離れたオーストラリアのビーチに毒性をもつクラゲが繁殖しているとしよう。何も知識がなければ、その海で泳ぐのを避けるようになるまでには試行錯誤と苦痛に耐えて学習しなければならないだろう。しかしいったんこれを学習すれば、後は「有毒クラゲに注意」という看板を立てておけばよい。他の人がその海で泳ぐことはないだろう。一人の人間の知識が広められることで、かれらは経験を共有して利益を得たわけである。

クリス・フリス『心をつくる―脳が生みだす心の世界』p224

 

プリティーオールフレンズのビッグクッションカバーの販売中止から見える歪み

ここまで書いてきたプリティーリズムの問題点と、プリティーオールフレンズのビッグクッションカバーへの批判の頓珍漢さが、あまりにも一致している。批判したり疑問を持つのは良いことだ。しかし、この手の輩は得てして自分の主張がすべての拘束から解き放たれていると錯覚しているのだ。

例えばこの記事だ。

 子ども向けアニメには非常に大きな社会的役割がある。それは子どもの自己認識/他者認識の形成に深く影響を与えることだ。

 「レプリゼンテーション」という考え方がある。「自分を代表(=レプリゼント)する者」がいかに表象されているのかを、社会的なメッセージとして受け取ることだ。この発想は自覚の有無に関わらず存在する。

 この考え方に照らせば、女児向けアニメに出てくる登場人物の多くはみな子ども自身の投影先であり、自己を代表させる存在である。あるいは現実に関わる他者の代表でもある。子どもたちはキャラクターを自身の身代わり、あるいはそのものとして認識し、物語を通じて価値観を学びとっていく。子どもに向けて放映する作品には、極めて大きな社会的意義があると言えるだろう。

 女児アニメのキャラクターを用いて公式が性的な商品を出す行為は、この社会的意義に対して無責任であると言わざるを得ない。子どもの性的客体化を容認するのと同義だ。

「子供向けアニメは子供に影響を与える」「制作サイドは作品が社会の中で果たす役割について熟考してもらいたい」という主張には大いに賛同しよう(現実において物理的に不可能だったり機能しなければ定着せずに放棄されるから、現実の環境の方が遥かに影響力は大きく、アニメにそこまでの影響力はないが、アニメが社会制度に影響とまではいかなくても、個人レベルでの影響自体はなくもないので熟考はするべきだと思う)。しかし、この記事には大きな問題がある。

まず、プリティーオールフレンズは子供向けなのかという点だが、これも「子供が簡単にアクセスできる」という記事の意見に賛同しよう。子供向けのキャラクターを利用しているのだから、制作サイドが「オールフレンズは子供向けではない」という意向であったとしても、子供の目に触れやすいので、それは言い逃れできない。

問題なのは、キャラクターが水着姿のクッションカバーは果たして子供のためにならないのかという点である。記事では「性的客体化の容認」「プリパラが丁寧に構築してきたドミナントな規範への撹乱性を尊重していない」ことを根拠にしているが、これのどこが子供のためにならないことの根拠になるのかがわからない。

性的客体化とは、相手を性的対象として見ることであり、これは尊厳を無視していると言うが、そんなことを言ったら「性的に見るな」と要求するのも、性的に見たい人間の尊厳を無視していると言える。ただこれは、「性的に見られるのは女性」「性的に見るのは男性」という前提かつ、男女に格差があり、社会的に男女の権力が非対称であることが前提とされている。男が女に搾取されても、男は抗うことができるが、女が男に搾取されても、女はそれが搾取だと疑問を持つことすらできないわけだ。「ドミナントな規範」というのも、男女に限らず、異性愛に対してのLGBTなども含めて、恐らくこのような非対称性が前提とされている。

しかし、この記事の論点はキャラクターが水着姿のクッションカバーは子供のためになるかならないかであったはずだ。子供向けアニメは子供に影響があるから、大人は責任を持たなければならないという問題だったはずが、「性的客体化」や「ドミナントな規範への攪乱」というのは、「大人と子供」ではなく「男と女」の権力の非対称性の問題にすり替わっている。子供の搾取は子供に喚起する必要はなく、大人が責任を持って防ぐべきことである。仮に水着のクッションカバーが搾取を助長する表現だとしても、その表現に現実の子供が影響を受けることが、現実の子供の搾取に繋がるわけではない。なぜなら、子供が搾取されたいと願ったとしても、子供を監督するのは大人であり、子供に責任能力はないからだ。例えば過激なジュニアアイドルだって大人の責任であり、子供の価値観自体は関係がない。責任能力がある頃には、すでに子供ではない。つまり、現実の子供が子供の搾取を内面化したとしても、その規範による搾取が問題となるのは成人した後であり、子供の影響が成人後の搾取に繋がることはあっても、子供への影響が現在の子供の搾取に繋がることはない。

男女の権力の問題に子供を巻き込んでいる。女の搾取は問題ではないと言っているわけではない。「子供への影響」と言いながら、男女の権力の問題にすり替えるべきではないと言っている。なぜなら女を搾取するのは男であっても、子供を搾取するのは男とは限らないからだ。大人の女も「大人と子供」の関係においては、権力を持つ側である。「客体化」を批判しておきながら、女の主体による支配には無自覚だ。「大人と子供」と「男と女」の権力の非対称性を混同するのは、大人の女による子供への搾取を見過ごすことになりかねない。むしろ、子供への搾取を肯定する表現の問題というのであれば、それに影響を受けた女児が大人になって子供を搾取する可能性を懸念するべきではないか。しかし、そんな懸念もこの記事には一切ない。自分の主張する立場を女でも子供でも何でもいいから非権力側に置いて、すなわち不幸アピールと同様に、弱者の立場を装うことで主張の正当化を図ろうとしている姑息さを感じる。

そもそもプリパラの作中にも水着姿は出てきているのだが、それに対してこの記事はこのように言っている。

 また、登場キャラクターの水着姿自体は作中何度も出てくるし、水着姿のライブシーンもある。

 しかしサイバー空間「プリパラ」内に入れるのは一部の例外を除いて原則女性のみだ(※1)。したがってライブ会場を埋めるファンはみな女性、それも主に少女=「友達」である。男性ファンが出てくるシーンもあるが、存在感は薄い。女児のためだけのセクシーを成立させるには、それを性的に観測する存在を同じ平面に入れてはならない。現実の女性アイドルのライブ会場を男性ファンが埋めていることを考慮すれば、ここでも「ずらし」が行われていることがわかる。

(※1)『アイドルタイムプリパラ』では原則として男性のみが入れるプリパラ「男プリ」が登場し、プリパラとの合同ライブも行われるが、あくまで「合同」であり、融合はしない。

要するに、プリパラの作中ではファンはみんな女性か少女だから、性的に観測されることがないらしい。これはまず同性愛者のことを自覚的か無自覚的か知らないが無視している。ファンが女性や少女であることが、なぜ性的に観測されないことになるのか。「大人の女による子供への搾取」は無視し、「女性は他者を性的に見ない」「同性愛は綺麗なもの」とでも思っているのだろうか。それこそ同性愛者への抑圧と偏見ではないか。それに別に同性愛者でなかったとしても、例えば男でも、憧れの対象として上半身裸の男のポスターを部屋に飾るといったこともある。なぜ水着姿のクッションカバー=性的なものと決めつけているのか。さらに、水着姿のクッションカバーは成人向けなのに、プリパラの作中での水着姿は成人向けではないことの根拠が、「プリパラの作中のライブ会場を埋めているのは少女という描写」だとすれば、水着姿のクッションカバーも少女が愛用している写真でもあれば、それで成人向けではなくなるということか。何とばかばかしい判断基準だろうか。プリパラだって作中には男はいなくても、現実の視聴者には男がいただろう。プリパラの作中の水着姿が性的に観測されない理由においては虚構の描写だけを根拠にしておいて、水着姿のクッションカバーが性的に観測される理由においては現実を根拠にするという。どちらにしてもキャラクターは虚構だというのに。

そしてこのようなことも言っている。

 私自身、『プリパラ』には何度も救われてきた。一貫してキャラクターの「あるがまま」を肯定する作品だったからだ。『プリパラ』では、自分がそうありたいからというだけで異性装をしている子、多動性の強い子、攻撃的な子、二重人格の子など、多様な属性を持つ人々が一切否定されずに描かれる。複雑な生をそのまま受け入れる価値観が子ども向けアニメで提示されたことを、筆者は非常に心強く感じてきた。

プリパラは「あるがまま」を肯定する作品だったから救われたと言うなら、水着姿になることも「あるがまま」ではないのか。水着姿になることをキャラクター本人は望んでいないのか。ビッグクッションカバーに描かれたキャラクターはみんな笑顔である。「男の期待が内面化されている」と言うのかもしれないが、それだと「プリパラに存在しているファンはみな女性」という自分で言った作品の解釈と矛盾することになる。「プリパラに存在しているファンはみな女性」であれば、水着姿のキャラクターが男の期待を内面化していることはありえない。だったら「水着姿になることを喜びだというあるがままの属性」を尊重していないのは、むしろそれを批判している自分自身だということになる。それとも何か。プリパラに登場するキャラクターと、ビッグクッションカバーに描かれているキャラクターは、一見同じキャラクターに見えても、実は別人だと。それだと、子供向けのアニメのキャラクターを利用しているからビッグクッションカバーは問題があるという議論の前提すら崩れる。

そもそも「あるがまま」とは、社会や文化から切り離された主体といったものを想定しているのだろうか。無人島で一人で暮らせば、他者との相互作用がない主体(そもそも主体という概念自体が社会秩序の効率性のためにすぎないが)といったものもあるのかもしれないが、この記事を書いている人間も、この記事を読んでいる人間も、アニメも見ている子供も、無人島で暮らしている人間なんて一人もいない。老若男女が存在している現実の社会で暮らしている。男が存在しない虚構の「あるがまま」を肯定しても、現実の子供の「あるがまま」とは関係ない。「水着を着たい、見せたい」という気持ちが男の期待を内面化した気持ちだと仮定しても、それを否定するのは、すでに内面化されている子供や、期待に応えたいと思う子供の「あるがまま」を否定することになる。それこそ自分に都合のいいように子供を利用している。

男の期待への批判はいいが、男の期待に反することがあるがままの子供もいれば、男の期待に応えることがあるがままの子供もいる。男と女では現実社会における権力が非対称だからという理由で「男の期待に応えてはならないという期待」を正当化しているわけだ。「水着を着たい、見せたい」という気持ちが男の期待かどうかは実際はわからないが、男女の権力の非対称性を隠蔽した搾取の可能性を考える必要はある。格差の是正も反対しない。だが、それは社会を変えることであって子供を変えることではない。子供の価値観に影響を与える子供向けアニメの責任という問題においては、どちらにしても「大人の期待」である。何度も言うが、子供の前においては女であろうとLGBTであろうと支配側なのだ。「男と女」において社会的に非ドミナントであることが、子供の価値観を支配していい理由にはならない。男の期待を批判する時、それはまた別の位置からの期待でしかなく、あるがままの子供が置き去りにされている。

証明できない対立においては、多数派少数派にかかわらず、どちらか片方を退けるのではなく、どちらも提示するのがフェアだと言える。「水着姿を見せたくないのに見せることのみを期待する」ことが抑圧であるなら、「水着姿を見せたいのに見せないことのみを期待する」こともまた抑圧である。別に子供の「あるがまま」をすべてにおいて肯定するべきと言っているわけではない。18禁表現ならそれを現実で真似することにはリスクがあるから、子供が望む望まずに関係なく、責任能力がある大人になるまでは子供から遠ざける必要はあるだろう。しかし、水着姿のクッションカバーはリスクがあるのものなのか。本当に子供の「あるがまま」を肯定するのであれば、水着姿を見せる見せないの選択肢を公平に両方提示し、子供が選べる状態を作るべきである。選択肢がなければ、子供は自分にとっての「あるがまま」を自覚することすらできない。水着姿のクッションカバーしかグッズが存在しないわけでもあるまい。商品ラインナップの幅を狭めることこそが、子供の「あるがまま」を否定している。

この記事は、自分自身が大人であり、子供からすれば権力側だということに無自覚である。自分の主張こそが「社会の中で果たす役割を熟考」できていない。「大人と子供」の権力の非対称性を隠蔽し、自分の主体に適ったひとつの規範しか子供に相応しくないと期待するのは子供の主体を奪っている。それは「男と女」の権力の非対称性を隠蔽し、男の主体に適ったひとつの規範を守ることを期待して女の主体を奪っているという性的客体化と同様のことを自分もやっている。この自家撞着していることに無自覚な傲慢さが、「自分本来の煌めき」を美化し、自分に同調しない他者を押し付けや抑圧する存在としてしか捉えられないところが、レインボーライブの問題点と一致する。あるいは「人は他者を理解できないから自分の理解を押し付けるな」という傲慢な自分の理解を押し付けている人間とそっくりなのだ。これはもはやビッククッションカバーの批判者の問題というよりも、プリティーシリーズ自体にこのような連中を呼び寄せる要因があることを無視できない。そしてビッグクッションカバーの販売を中止し、子供のためを考えずにこういう自己愛人間に媚びを売るのが、プリティーオールフレンズなのである。

 

子どもは40000回質問する  あなたの人生を創る「好奇心」の驚くべき力

子どもは40000回質問する あなたの人生を創る「好奇心」の驚くべき力

 

 

*1:あいらはカリスマモデルのみおんに憧れているため、あいらのおしゃれの価値観はみおんの影響を受けている。その証拠に第14話でみおんから「素敵なコーデだがオリジナリティがない」と言われている。となると、あいらのおしゃれの価値観はカリスマモデルという世界基準のおしゃれの価値観と相違ないということがわかる。これによってあいらが嫌がるあいらの父親が選んだ服というのは、おしゃれではないという意味だとわかる。