プリティー研究所

プリティーリズムの考察など

キンプリ KING OF PRISM Shiny Seven Stars 第8話の感想と批判 井内秀治と菱田正和の違い

キンプリSSS第8話の感想を書く。

本編の内容としては、第8話でスポットが当たるのは涼野ユウ。PRISM1の開催が決まり、ユニット曲を何にするか話し合う中、ユウは新曲を書くから任せろと豪語する。しかし、スランプになり作曲に行き詰まる。そこで、みんなで海に合宿に行くことに。みんなが海を満喫する中、ユウはみんなが合宿の目的を忘れて遊んでいることに怒っていた。夜、ユウは一人で宿泊先から抜け出し、姿をくらます。みんなでユウを探すが見つからず、いなくなった理由を考えていると、ユウがエーデルローズに入った理由を誰も知らないことが発覚する。一方、ユウは同い年の仲間を欲して一人歌う。すると実はユウもみんなと一緒に合宿の目的を忘れて海で遊んでいたことを思い出す。その時、エーデルローズ生たちがユウを見つけ駆け寄ってくる。スランプから抜け出し、みんなと一緒に曲を完成させる。

良かった点としては、序盤のユウのワガママなところは個性的だったし、曲と映像が一致するプリズムライブの演出はやはり良いものだ。

悪かった点としては、この話は意味がわからない。他のエーデルローズ生たちはPRISM1には既存の曲で出場しようとしていたところ、自分から新曲を書くと言ったのに作曲に行き詰まって怒り出すのはユウが悪い。しかし、合宿で海に行ったにもかかわらず遊んでばかりいたのはエーデルローズ生たちが悪い。それなのに、ユウが宿泊先からいなくなった理由が、なぜか「同い年の仲間がいないこと」にすり替わっている。曲を作ることと同い年の仲間がいないことにどういう関係があるのか。同い年であることに拘る理由もわからないし、同い年に拘っていたのに年上の仲間がいるという終わり方も意図がまったくわからない。同い年を強調した意味は何だったのか。

ユウが「任せろ」と言ったのに目的を果たせないことで理不尽に周囲に怒り出すのは、気まぐれワガママ系キャラクターにしようという意図があったとしても、合宿と言ったのに目的を果たさずに遊んでいるだけのみんなに怒り出すのは、別にワガママではなく正当な怒りである。気まぐれワガママ系キャラクターにしようという意図があったとしても失敗している。お互いに「最初に言った約束を守らない」という言動があるわけだ。周りに一切の非はなく、ユウだけが「最初に言った約束を守らない」であれば、それが逆にユウの個性であり魅力になった。しかし、周りも「最初に言った約束を守らない」という言動があり、しかも周りはそれを自分たちの非として反省してしまうと、「最初に言った約束を守らない」がユウの個性ではなく、誰にでもある非であり反省点となってしまう。それなのにユウだけ非として認めず反省していないのは不公平であり、むしろユウの印象が悪くなっている。つまり、ユウだけの言動であれば、その言動が公平な視点においては悪いところであったとしても、唯一無二だから個性であり魅力になりえたが、ユウとエーデルローズ生たちとお互いに似た言動があったため、その言動が個性にはなりえず、公平な視点に引き戻され、単に悪いところでしかなくなってしまった。

「ユウは昔は聞き分けのいい子だったのは我慢していたから」と言うが、「昔のユウ」が登場するレインボーライブの第30話で、ジンギスカンを食べた後に「いいなーユウちゃんは毎日あんなに美味しいもの食べられて」と言われて、ユウは「毎日は食べない」と不機嫌そうに返答するなど、聞き分けのいい描写は特にない。レインボーライブの描写は無意味であり、今作で初めて明かされた「ユウは昔は聞き分けのいい子だったのは我慢していたから」という設定が事実だったとしよう。だとしても、「ユウは昔は聞き分けのいい子だったのは我慢していたから」という設定を今明かすことと、自分で作るといった曲ができなくて怒ったり、合宿なのに遊んでばかりいるエーデルローズ生たちに怒って宿泊先からいなくなることとは一切関係がない。可哀想な設定によってワガママなことを大目に見てもらおうと意図したのかもしれないが、昔聞き分けがよかったからと言って、今ワガママなことを許す道理はない。ワガママなことが許される必要もない。むしろキャラクターの魅力を台無しにしている。

「可哀想な設定」によってユウを変に正当化しているため、エーデルローズ生たちとの関係性が、腫れ物に触るように余所余所しいものとなっている。今回の曲作りの件とはまったく関係がない可哀想な過去があるからという理由でユウの非は責めず、一方的に「力になれなくてごめん」と反省するエーデルローズ生たちの態度は、ユウを対等な仲間として見ておらず、ただの憐みである。今回の曲作りの件とはまったく関係がなく、家庭の事情を明かしたからと言って何か解決策がわかるわけでもないにもかかわらず、本人が話していない家庭の事情を周囲に勝手に話したり、勝手に憐みを抱かせたり、無神経なことに無自覚な脚本である。エーデルローズ生たちの関係性が深まるどころか、薄っぺらくなってしまった。

前作のアレクであったり、レインボーライブのジュネのように、周囲から拒絶されても貫き通しているようなキャラクターは嫌味がない。しかし、可哀想な設定で憐れまれて許されるようなキャラクターは、都合よく責任逃れさせようとする意図が見えて、むしろ本人の印象も周囲の印象も悪くなるのだ。ワガママなことの責任から逃げないからこそ、ワガママなことが個性であり魅力になるのに、憐れむことによって本人の責任=主体を奪っている。

井内秀治が主に担当していたと思われるキャラクターは、涼野一家にしてもジュネにしても初期ヒロにしても、他者が犠牲になっても自分の心を優先させることが美であり、そこに許しを請わない潔さがある。むしろ周囲から許されない物語に陶酔しているとさえ言える。それに対して菱田正和は、ハッピーエンド至上主義かつ、他者から許されることをハッピーエンドだと思っている。しかも許しを請う方法が、具体的な償いではなく、可哀想だから許すべきという憐みで誤魔化すから嫌味がある。他者を犠牲にする人間も許されるため、身勝手な人間にとって都合のいいエンドになる。ステージ上で結婚を報告したアイドルへの許しを強制するなんて、優しい世界でハッピーエンドなのはアイドル本人たちだけで、観客にとっては地獄の世界でバッドエンドだということがわからないのだろう。だから井内秀治の「キャラクターが内罰的に自己陶酔する物語」を下手に許しを与えて台無しにする。つまり、他者を犠牲にした人間は「十字架を背負い続けなくてはならない」と自己陶酔するのが井内、他者を犠牲にした人間は「実は可哀想な背景があるから許してやれよ」というのが菱田。そしていずれにも共通するのは、加害者の痛みばかりを重視して、被害者の痛みは軽視するという点。