プリティー研究所

プリティーリズムの考察など

ティッシュ専用ゴミ箱2への批判とプリティーリズム・オーロラドリーム第46話の正しい解釈

 

ティッシュ専用ゴミ箱2の女児向けアニメで描かれる「他者の理解できなさ」について。あるいは、女児向けアニメは家族の問題とどのように向き合ってきたか。-『プリティーリズム』『プリパラ』を一例にしてが如何に頓珍漢なのかを説明したい。

 

まず結論から書こう。ティッシュ専用ゴミ箱2の記事には次のように書かれている。

 『プリティーリズム』・『プリパラ』シリーズが描いてきたのは、「チームで一つになること」ではない。むしろ、決して「一つにはなれない」ということであり、「一つにはなれない」ということがときに救いになるということを、これらの作品は描いてきた。

これは誤読である。なぜならプリティーリズム・オーロラドリームの作品内に次のような台詞があるからだ。

ずっと考えてた。どうして私たち三人なんだろうって。MARsの活動を通してわかったの。

みおんが右に倒れそうになったらりずむが支えてくれる。左に倒れそうになったらあいらが支えてくれる。誰かが倒れそうになっても横にいる仲間が支えてくれる。

MARsは三角形じゃない、まんまるの輪よ。

三人は輪になって一つになる

それがトリオの力、MARsの意味よ。

プリティーリズム・オーロラドリーム 第37話

もうこの時点でティッシュ専用ゴミ箱2は誤読であると明らかになってしまったので終わってもいいのだが、続けよう。

 

他人の心に踏み込んでいったり、他人と自分を同じ存在だと思ってしまったりすると、正常な距離は失われることになってしまう。だから、互いに「理解できない不気味な他者」として関わり、そしてそれゆえに「共にいる」こと。わたしたちはそうした関係に満足しているべきだし、そうした関係にこそ価値がある。

このティッシュ専用ゴミ箱2の記事は自己愛に塗れている。相手を理解しようとすることが押し付けであり、理解できない関係に満足しているべきだなどと言うのは、理解したくないということを理解しろということを相手に押し付けているのである。理解できない距離感などと言ってその距離感を作り出し守り続ける方が、自分の中の理想の相手像を相手に押し付けたいにすぎないのだ。

人は、男と女は、例えどんなに好きな気持ちを持っていても、ひとたび手をつないだ瞬間から、恋の終わりが始まってしまう。時を重ねれば、やがて二人はいがみあい、憎しみあい、嘘を嘘で固めていく。そして二人には必ず別れがやってくるんだ。恋は憧れのままが、恋は夢のままが、一番純粋で美しい。

プリティーリズム・ディアマイフューチャー 第29話

例えば、生まれてから数ヶ月の乳幼児はどのような言語の発音の違いも聞き取れるが、成長するにつれて母語にない音の違いがわからなくなってくるという。母語に最適化し、母語にない発音は切り捨ててしまう。これは母語を押し付けられているとも言える。あるいは、計算を覚えたての子供は指を使ったり具体物に置き換えて思考するだろう。数字が大きくなるにつれてその方法では難しくなってくるため、概念で思考せざるを得ない。概念で思考することが馴化すれば、わざわざ計算のために具体物に置き換えて思考はしなくなる。概念の正しさ、便利さを理解してしまえば、具体的な思考は切り捨ててしまう。これは概念を押し付けられているとも言える。

このように成長や新たな知識を得ることは、押し付けであり、可能性を切り捨てていく側面もあるだろう。それによって柔軟な発想ができなくなるなんてこともあるかもしれない。しかし、それは一部の面白さを失うことでしかない。言葉や概念を理解できなければ、アニメを見ることすらできないだろう。理解できることが増えれば、新しい面白さを感じられる可能性も、生きやすくなる可能性も、広げられるのである。理解できない関係にこそ価値があるなどというのは、今の自分を守るための幻想に他ならない。幻想自体は好きにすれば良いが、子供には理解することで広がる面白さがあるという事実を教えていくべきだと個人的には思う。

他者の気持ちは理解できないと諦めるのと、知識を理解するのをやめるのは意味が違うと言いたいのかもしれない。しかし、他者の気持ちというものは不可知なものではなく、身体状態や遺伝子や記憶や状況と関連しており、それらはすでに解明されてきており、いずれは人の気持ちというものも、客観的な知識としてすべて解明されるものである。他者の気持ちは理解できないと諦めるいうのは即ち、知識探求をやめることであり、成長をやめることである。それは単に今の自分が思い込んでいる自分の気持ちを不可知なものとして特権化したい自己愛にすぎない。自分が自分を一番理解していると思う人間は健康診断を受けるのをやめていただきたい。そういう人間は医師がいなくても意思があれば自分の状態がわかるはずであろう。医師は自分の意思に反する診断結果を押し付けているだけということになる。すべてが自分の見ている夢の可能性もなくはないとは思うが、今の自分の理解だって自分一人によるものではないはずだ。他者が発見し洗練させた知識や、他者の理解によって自分自身への理解が深まることだってある。

みおん、一人で何でも出来るって思ってました。でも違ったんです。

スイッチがオンにならないというか、だけど、あいらとりずむといると、スイッチがオンになった。

あいらとりずむのおかげで、みおん、変わることができたんです。

(中略)

町も人も変わっていきます。でもこの町が本当に好きなら、今の町の良い所を見つけてやっていくべきです。

プリティーリズム・オーロラドリーム 第28話

私は、何の取り得もない、ドジで引っ込み思案な女の子だった。

でも、プリズムショーに出会ってから、沢山素敵な人に出会えた。

りずむちゃん、ショウさん、ヒビキさん、ワタルさん、阿世知さん、純さん、ラビチたちも。

そしてパパ、ママ、いつき、うる、える、私はみんなのおかげで、こんなに素晴らしい舞台に立たせてもらっている。

プリティーリズム・オーロラドリーム 第12話

 

小川彌生きみはペットという作品に次のような台詞がある。

毎日口にする食事はいろんな人の手を経ている。だれかが建てた家に住み、だれかが作った服を着て、だれかが動かす電車に乗って仕事へ行く。わたしちゃんと甘えてるじゃない。人は孤独だけど、だから支えあえるんじゃない。そしてもう取り返しがつかないほど、この子に依存しちゃってる。

小川彌生 きみはペット rule10

君はペットの主人公の巌谷スミレは、人に依存することを嫌い、誰かに助けられるお姫さまではなく、誰にも頼らず一人で生きていこうとする。まさに自立した理想的な女性。しかし君はペットはこのような幻想を持てはやすような作品ではない。スミレは体調不良であっても、助けを請う弱い自分を否定し、強くあろうとする。そんなスミレを見て、ペットとして一緒に暮らし、スミレに養われている男性のモモは、スミレに料理を振る舞う。そこでスミレは不意に涙をこぼしてしまう。人に依存せずに生きていけるという考えが幻想であったことに気付くのである。

 

ティッシュ専用ゴミ箱2の記事は「理解」という言葉を使うのが不適当なのである。建前の話なら多少は同意はできる。どんなに仲の良い関係でも親しき仲にも礼儀はある。身体を破壊する不可逆な行いや法よりも建前を優先するべきではないが、建前のない関係は続かないだろう。相手を批判するということは訂正や改善や闘争を要求するということでもある。緊急を要さないのに常に訂正や改善や闘争を求められる関係は大抵の人は疲れるだろう。変わることが不可能or難しいことなら尚更。相手を信頼しているなどと言って相手に一方的に甘えてばかりでは、関係は上手くいかなくなるだろう。

例えば、人に向かって不細工と言うのは無礼極まりない。不細工な人も美人の価値がわからないわけではなく、変わることが不可能or難しい、あるいは自分で 納得して不細工でいるのだ。ある程度は改善できる場合だとしても、一定以上は好みであるし、多大な労力を費やされる。親しい関係であろうと、ジョークであ ろうと、表面上は笑っていようとも、不細工とは一般的には悪口であり人を傷つける言葉だ。誰もが一般と関わって生きていかざるを得ないのだから、一般的な 意味を頭から排除できない限り、その言葉によって自尊心は傷つけられていく。だから本音では不細工と思ってしまう人であっても、プロのモデルのオーディションなどではない限りは(そうであったとしても面と向かって言うべきではないと思うが)、口に出すべきではないし、不細工だと思っていることを相手が 知ってしまったら、相手が傷ついてもう一緒にはいられないかもしれない。しかし、傷つくことを理解しているからこそ、不細工だとは口に出さないし、相手も気を使っていることを理解しているからこそ、それを口に出さない相手を信頼して一緒にいられる。建前も相互の理解によって成り立っている。これはアイドルとファンの関係でもある。

プリティーリズム・オーロラドリーム第46話は建前を優先させる=訂正や改善や闘争をしなくていい状況ではない。プロのプリズムスター同士、 プリズムクイーンカップに向けた中で、りずむは未来へ進むことを拒絶していた。未来へ進むことを理解できなければ、それは新たに知ることの拒絶であり、成長の拒絶である。第21話と矛盾することになる。このようにティッシュ専用ゴミ箱2の記事はプリティーリズム・オーロラドリームで描かれたこととは矛盾だらけなのである。

隣にいるお互いを見つめあってしまって、前に進むことを忘れてしまった。私たちは、同じ方向を、同じように前を見ながら進まなくちゃいけなかったの。

プリティーリズム・オーロラドリーム 第21話

 

続いてこの部分。

 再び闇のなかを進むあいら。闇を突き進んで行った先には「子どもの姿のりずむ」が泣いていた。彼女は、外の世界を恐れて、たった一人で孤独に泣いていたのだ。親友であるあいらにも隠し続けていた弱い姿のりずむ、「捨てられた子ども」としてのりずむがそこにはあった。

 外の世界への恐れを取り除いてあげようと、必死に話かけるあいら。しかし、彼女はここでも失敗を犯す。りずむの前で、「自分の母親を奪った」「自分よりも才能のある」かなめの名前を出してしまうのだ。ようやく見つけた心の最も奥にいる本当のりずむに、あいらができたのは追い打ちをかけることだけであった。りずむは重油のようなドロドロした闇へと飲み込まれていく。

 このエピソードで執拗に描かれるのは、あいらがりずむのことを、どこまでも徹底して「理解することができない」という現実である。主人公として才能に恵まれ、家庭にも恵まれてきたあいらは、「自分に才能がないゆえに家庭を失った」と思い込んでいるりずむの心を、最後まで理解することができない。最後まで、自分が「こうあってほしい」と望むりずむの姿を探すことしかできないのである。残酷なようだが、寂しさや孤独を感じたことのない人間は、他者の孤独を想像することができないのだ。

あいらが「こうあってほしい」と望むりずむの姿とは「明るくて前向きなりずむ」だとすれば、それは作品上でも描写されており、視聴者も認識している。それを「こうあってほしい」と望む姿でしかないというのであれば、視聴者の認識も間違いということになり、「子どもの姿のりずむ」も「こうあってほしい」と望む姿でしかない。しかし、あいらはりずむを未来へ連れ戻そうとしているわけだから、あいらが「子どもの姿のりずむ」を望むことにどのような意味があるのか説明がつかない。「子どもの姿のりずむ」は孤独を抱えている姿だとすると、この前提では「子どもの姿のりずむ」はあいらが「こうあってほしい」と望む姿であるのだから、あいらは「他者の孤独を想像できない」というティッシュ専用ゴミ箱2の解釈は破綻している。即ち、あいらの認識上に「子どもの姿のりずむ」が立ち現れているのであれば、あいらは「こうあってほしい」と望むりずむの姿を探すことしかできないと、他者の孤独を想像することができないは両立しえないのだ。可能な解釈としては、片方が真なら片方が偽、あるいは両方が偽である。

このような論理の破綻に加え、「寂しさや孤独を感じたことのない人間は、他者の孤独を想像することができない」などと範囲を広げるのは、何の根拠もない偏見でしかない。反証であれば、オーロラドリーム第6話であいらは母親が来ない子供に対して「あの子、ママが来ないから寂しいのね」という台詞がある。従って正しい解釈としては、「こうあってほしい」と望むりずむの姿を探すことしかできないと、他者の孤独を想像することができないというのは、両方が偽である。

りずむはあいらやみおんに対しても悲しみを見せられなかった。見せないものを勝手に推察するのは疑う行為でもあるし、他者への不信感の現われでもある。りずむの見せなかった、りずむ自身も気がつけなかった感情を神の視点から理解することはできなかったし、人は他者を現状において見えている部分でしか判断することはできないだろう。しかし、憎しみをぶつける尋常ではないりずむに対して踏み込むことで、りずむは悲しみの表情を見せることができ、あいらとみおんはりずむの悲しみを理解できた。だからこそ、あいらとみおんは側に寄り添うのである。人は他者の過去も悲しみも消し去ることはできない。だが、悲しみを理解し、寄り添い支えることならできるのだ

そもそもとして、どうしてりずむは子供の姿を取っていたのか。孤独を抱えていることを表現するためだけであれば、子供である必要性はない。第46話においてあいら、りずむ、みおんが何を志向しているのかを整理すると、りずむは「プリズムショーなんてやめたかった」「オーロラライジングなんてもうどうでもよかった」という台詞から、オーロラライジングを飛べば悩みが解決するというのが間違いかもしれないと薄々感じていたと考えられる。

解決のためのオーロラライジングであり、オーロラライジングのためにプリズムショーを始めたはずが、その方法は間違っていたのかもしれないと薄々感じて、だからプリズムショーなんてやめたいし、そもそも始めなければよかったと思い、「怖い、そっちには行きたくないの」とプリズムショーを始めるという未来へ進むことを拒否するわけだ。そこであいらが自分の経験則でもあるプリズムショーを始めて未来へ進んだことによって出会えた人たちや得られた喜びを語る。それを語られた時のりずむの嬉しそうな反応を見れば、りずむにとってもあいらと同じく結果的にプリズムショーを始めたこと自体は間違いではなかったはずが、今現在の感情的には喜びとは思えないそなた・かなめとの出会いから信じられなくなり、再び未来を拒絶する。あいらは「大丈夫、未来を信じて」と言うが、あいらとの出会いのみではそなた・かなめとの出会いによって確信できない。そこでみおんが現れ、「さあ行くわよ、未来へ」と言って連れ戻す。「あいら、みおん、二人に会えて本当によかった」という台詞からも、二人いたことによって未来へ進んだことは間違いではなかったと思えたとわかる。だから第48話のあいら母との会話において「あたしには今支えてくれる仲間がたっくさんいるから。逆に今はこんな運命にありがとうって言いたい」に繋がる。同じく第48話のみおんの台詞で「こうして周りの人たちがあなたに協力してくれる。それも含めてあなたの力よ」と言うように、本人が本人のことを一番理解していたと思ったら大間違いということである。つまり第46話は、りずむは未来を拒絶、あいらとみおんは未来へ進むことを志向していた。りずむはあいらとみおんによって未来へ進むことの方が自分にとって利があると理解することができた。

第46話においてあいらとみおんにアプローチの違いがあったというのは、みおんはあいらと一緒にりずむの腕を掴むという描写しかないので無理がある。例えば第37話でプリズムジャンプが飛べなくなったあいらに対してみおんは、「私たちが今までやってきたこと思い出してみて」とこれまでの出来事を語る。第36話のあいらの台詞的に言えば「心の中の宝物」を思い出させ、未来を信じられるようにするという点で第46話とまったく同じ構造になっている。もう一度引用すると、

ずっと考えてた。どうして私たち三人なんだろうって。MARsの活動を通してわかったの。

みおんが右に倒れそうになったらりずむが支えてくれる。左に倒れそうになったらあいらが支えてくれる。誰かが倒れそうになっても横にいる仲間が支えてくれる。

MARsは三角形じゃない、まんまるの輪よ。

三人は輪になって一つになる

それがトリオの力、MARsの意味よ。

プリティーリズム・オーロラドリーム 第37話

プリティーリズム・オーロラドリーム第37話で、あいらは親しくなったかなめが実はライバルチームの一員だと知らずに、大会用の衣装やダンスやプリズムジャンプをかなめに披露してしまうミスを犯してしまったことにショックを受け、プリズムジャンプが跳べなくなってしまう。かなめは一度見たダンスやプリズムジャンプを完全にコピーすることができると強調される。これはあいらがプリズムスターとしての存在価値を奪われることを意味しているのではないか。かなめの能力は、寸分の狂いなく動作を入力することで同じ状況を再現することが可能だからこそ、第47話で型は同じでも人によって変わる、即ち微妙な動作の差異によって表出される映像が変わるオーロラライジングを跳んでも、そなたと同じ映像を見ることができたのだろう。ちなみに第48話のりずむがそなたと同じ映像を見られたのは、婚約のプリズムストーンメモリーカード代わりになっていたからだと思われる。それはさておき話を戻すと、かなめがあいらのプリズムショーを再現できるのあれば、あいらはプリズムスターとして必要とされなくなる。そこでみおんはプリズムスターとして活動してきた日々を思い出させる。かなめは目で見たものしかコピーできない。だからこそ、目に見えない記憶の中にしかない思い出から新たなプリズムジャンプを生み出すのである。ここからわかることは、かなめは存在価値を奪うキャラクターであるということと、存在価値を奪われたキャラクターを立ち直らせるには、目に見える価値ではなく、目に見えない価値が必要だったということである。つまりだ、明るく元気なりずむも、悲しむりずむも、逆恨みするりずむも、表出され理解し模倣や一般化が可能である。かなめに存在価値を奪われたりずむは、他者に悲しみを理解される、即ち感情を対象化するだけではなく、りずむの記憶の中にしかないプリズムショーを始めたことで得られた思い出を呼び起こす必要があったのだ。

プリティーリズム・オーロラドリームは悲しむ対象に共感し、陶酔し、不憫がるだけの情動に留まって満足するような作品ではない。あいらはりずむの悲しみを理解しているが、だからと言って未来へ進むことを放棄するりずむを放っておくことはできない。なぜなら、未来の話をした時のりずむは嬉しい表情も見せているため、未来へ進むことはりずむにとっても嬉しいことであると理解しているからだ。本人の意思を尊重するなどと言って放任することは、虐待、DV、あるいは自傷行為や中毒者などの問題を見過ごすことになりかねない。虐待やDV被害者の中には、被害者本人の意思においては自分を責めたり、日常化して疑問を持たなくなるケースがある。それを本当に望んでいることなのかと言えば違うであろう。

最終的に選択するのは本人の意思であるが、その意思が正しい選択を行えない状態、即ち他に選択肢があると知らなかったり、あるいは選択に値する確信を持てるだけの詳細な情報がなかったりした場合、他者が情報を提供することによって、自由な選択が可能になるのだ。そして他者は正しい選択を行えない状態であることを理解する必要がある。理解できない関係に満足していては、他者にとっても、自分自身にとっても、選択肢は増えないままであり、根本的には解決できないのだ。

信仰は自由である。身体に害を与えるような信仰は止めるべきであるが、そうでないのなら信仰によって苦しんでいようが、好きで信仰し好きで苦しんでいるのだから、別の選択肢を提示するのはいいが、他者が勝手に不憫がるのは無礼なのである。

 

続いてこの部分。

娘が母に対して「私は人間だ」と宣言し、母もまた自分が娘と同様に愛を求めてきた「一人の不完全な人間だ」ということに気がつく。こうしてみて初めて、この親子はそれぞれが自分にとって「他者」であるということ、そして自分は「(母や娘ではなく) 自分」であるということに気がつき、適切な距離を取り戻すことができる。そうすることで、自分たちの間に「支配」ではない形での「愛」を取り戻すことができる……。ここで描かれているのは、「親」も「子」も一人の他者であり、他者であるからこそ上手く共に過ごすことが出来るということであった。これが親子の関係の現実的なあり方の一つなのであろう。

 

Pin-Pointの墜落人生-清楚お嬢様のヤクキメタコ部屋売春ライフ-という作品に次のような台詞がある。

畳みかけられるような両親の言葉に、ふつふつと苛立ちが募る。

そもそも、両親には今まで自分を小さな世界に閉じ込めていたのでは、という疑念が募っていた。

その疑念と苛立ちが相まって、抑えきれない感情が膨れ上がる。

(中略)

「私がどこで何しようと私の勝手でしょ!?お母様やお父様に指図される筋合いなんか無い!私はもう子供じゃないんだからっ!!」

「大体っ、二人が私の何を知ってるって言うのっ!?何にも知らないじゃない!そんな人に、どうこう言われたくなんかないわよ!」

「今まで生きて来て、私は今が一番楽しいのっ!お父様やお母様の言う、良い子だった時よりも今の方がずっとずっと楽しくて幸せなんだから!」

(中略)

「もう嫌っ、本当に嫌っ……お父様もお母様も、私のことなんてっ……全然分かってくれない……!」

Pin-Point 墜落人生-清楚お嬢様のヤクキメタコ部屋売春ライフ-

お嬢様として育てられた真由美は男と出会い、今まで知らなかった遊びやセックスを知る。そして夜遅くに帰ってきたことを両親に咎められたことで不満を爆発 させ、真由美は家を出て男の元で暮らすことになる。その後の展開と結末はネタバレになるので伏せるが、作品タイトル名から察してほしい。ラストは素晴らしいショーを見せるのだが、個人の、子供の意思を無条件に賛美するのが如何に危険なのかがわかるであろう。子供の意思は配慮するべきものではあるが、賛美するようなものではない。

この作品は成年向け作品としては名作である。退屈な日常から非日常への変化によって情動は喚起される。両親によって清楚で礼儀正しく育てられたお嬢様という殻を破り、淫らで卑しい一人の不完全な人間へと堕落していく。これもある意味、ティッシュ専用ゴミ箱2の記事に従えば人間讃歌と呼べるだろう。しかしこれは子供にとって価値のある作品かと言えばノーである。

子供は親に比べれば知識がなく、正しい判断ができるとは限らない。だからこそ親に監督責任がある。にもかかわらず、ティッシュ専用ゴミ箱2の記事のように、教育方法を検討もせずに、「一人の人間だ」などと言って雑に相対化してしまうと、問題を見過ごすことになる。親も人である。親が常に正しいとは限らない。だからと言って子供の意思のみに任せていてはもっと間違いが起きる。完全にはなれないからと言って、完全を目指すことを諦め、不完全なままでいることを良しとするのは意味がまったく違う。真摯に向き合うのであれば、教育方法と子供の意思の利点と欠点を提示し、折り合いをつける必要がある。

ティッシュ専用ゴミ箱2の主張は、恵まれた人間が行う、誰もが抱く程度の親への不満を言い合って共感しあう戯れの一種である。これが虐待などを受けている本当に深刻な子供のためになるのかと言えばならないし、そのような子供には周囲の助けが必要であり、アニメの影響程度ではどうにもならないと思うが、本当に深刻な子供に選択肢を与えるのであれば、親との決別を提示する必要がある。あるいは、逆に理想的な家族物語の方が、現状とのギャップが浮き彫りになり、自らの家庭環境の異様さに気がつくことが可能になるだろう。手緩い家族不満物語こそが、現実問題においては何の意味も持たないのだ。

確かに恵まれた人間にとっては、決別したいほど親と仲が悪いわけではないので、決別や虐待を見せられても非現実的に見えるだろう。その点、ありがちな親への不満は非常に理解し易い現実的であり、アニメではそのように欲望をくすぐることにのみ長けていれば良いといえる。

現実の世界には見えていないだけで問題は無数にある。見えていなかったものを見えるようにさせることが成長に向かわせることである。そして理解できなかったものを理解できるようにさせる作品こそがプリティーリズム・オーロラドリームなのだ。ティッシュ専用ゴミ箱2の記事は、理解できない関係にこそ価値があるなどという自らの虚構に酔うために作品を捻じ曲げているのである。